どんなときでも「信号を守る」は正しいか
しかしそんな場合でもわたしは、小学校低学年や親に連れられた幼児が待っている場合は、やらなかった。こんな理屈より、かれらには「信号を守ろう」が優先するから。
小学生の高学年ともなると、「あ、信号無視!」と平気でいうのである(わたしの実体験)。そんなときに、車が来てない場合は、赤信号を無視してもいいんだぞ、と小学生相手に理屈をいってもしかたがない。
が、大学生や大人やおっさんでも、「信号守れよ」というものがいる。が、車はまったく来ないのである。来る気配もない。あるときは夜遅く、遥か彼方までも車はいないのだ。それでも「信号守れよ」というやつがいるのである。
そういうときは、「おまえは一生そこで信号守ってろ」といったりしたこともある。「あほづらして」とはいわなかったが。
しかしかれらは動じない。「信号を守る(守れ)」は、かれらにとって金科玉条なのだから。その限りでは、彼らは正しい。だが、意味のない正しさだ。
わたしは自転車に乗っていても、平気で信号無視をしていた。後ろから、「自転車の人、信号を守ってください」とパトカーから注意されたことはあるが、かれらも職務上、それはまあしかたがない。
わたしはアメリカに行ったことはないが、ヨーロッパでは、信号無視は日常茶飯事、あたりまえのことである(もう20年以上前になるが)。
それもわたしみたいに、左右の安全を十分確認してから横断するのではなく、隙あればすぐに渡るのだ。接触しそうな危うい場面もある。
ところが欧米では、車よりも、当然、歩行者の方が優先だからなという意識がある感じがする。日本では、車が威張っているが、欧米では「接触したら、そっちのせいだから、気をつけろよ」というような気迫を醸し出しながら、渡っているのである。
赤信号、みんなといっしょに待ってみる
ここ10年くらいは、信号を守っている。
左右を見渡して車が来るかどうか、を確認するのがもうめんどうになったのである。年をとって、時間がありあまるほどあり、もう待てばいいや、と思うようになった。
それでもみんなと並んで青信号になるのを待っていると、なにを待っているんだろうと思うことはある。
横断歩道の向こう側とこっち側に、歩行者が何十人も並んで立っている。左右を見ても車は1台も来ていない。ただただ赤信号が青になるのを待っているだけなのだ。
わたしも含めて、さぞかしまぬけづらをさらしているのだろうなと思う。実際、客観的に見れば、まぬけな風景にはちがいない。
日本人は自分で考えて行動することができない、といわれる所以である。