3.プーチン大統領のウクライナ侵攻への道程

 プーチン氏は独自・独特の歴史観を持っている。そして、その歴史観からウクライナ侵攻を正当化している。

(1)2005年4月、プーチン氏の年次教書演説

 2005年4月の年次教書演説でプーチン氏は、1991年末のソ連解体について「20世紀最大の地政学的悲劇」と述べた。

 この言葉の裏には、軍事的手段を使ってでも、ソ連崩壊で失われた「歴史的ロシア」を取り戻したいというプーチン氏の強烈な復讐心を垣間見ることができる。

(2)2007年2月、プーチン氏の「ミュンヘン演説」

 プーチン氏の対外路線激変に西側が初めて気づいたのは、ようやく2007年2月になってからである。

 それは、有名な2007年の「ミュンヘン演説」である。

 米国一極支配体制やNATO拡大を痛烈に批判した演説に米国やヨーロッパは驚き「新冷戦の始まり」を告げるものと受け止められた。

 プーチン氏は、ドイツでの「ミュンヘン国際会議」で次のような演説を行った。

「NATOの東方拡大は、同盟自体の近代化や欧州の安全保障の確保と何の関係もないことは明らかだ」

「それどころか、相互信頼のレベルを低下させる深刻な挑発行為である。私たちは、この拡張は誰に対するものなのか、と問う権利がある」

「また、ワルシャワ条約機構が解体した後、西側諸国のパートナーが行った保証はどうなったのか。その宣言は今どこにあるのか。 誰も覚えてさえいないかもしれない」

「しかし、何が語られたのかぜひ思い出してもらいたい」

「1990年5月17日、ブリュッセルでのヴェルナーNATO事務総長の演説を引用したい。彼は当時、次のようにいっている」

「『我々がドイツ領土の外にNATO軍を配置しない姿勢でいるという事実は、ソ連に確固たる安全保障を与える』。その保証はどこにあるのか?」 

(3)2008年4月、NATOサミットでのプーチン演説

 2008年4月にルーマニアのブカレストで開かれたNATOサミットに出席したプーチン氏は、ロシア系国民が多数いるウクライナについて「NATO加盟問題が発生すれば、国家としての存立が危機を迎える」と脅迫とも受け取れる表現で演説をしたが、NATO側から強い反発は出なかった。

 この西側の対応が、プーチン氏に旧ソ連地域での「行動の自由」を許すことになったとされる。

 NATOはこのサミットでロシアを刺激しないことを優先し、米国が強く推していたウクライナ、ジョージアのNATO準加盟を回避した。

 しかし、ロシアは4か月後の2008年8月、ジョージアに侵攻し、6年後の2014年にはウクライナに侵攻してクリミアを併合した。

 この間、米欧はロシアの行動の後追いに終始した。制裁は課したものの、半分及び腰だった。

(4)2014年3月、クリミア併合時のプーチン演説

 プーチン氏は2014年3月18日、クリミア半島(クリミア半島を構成するクリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市)のロシア併合を宣言した演説の中で次のように述べている。

(出典:ウォール・ストリート・ジャーナル「クリミア併合5つの理由―プーチン大統領の主張」2014年3月19日)

①1954年にニキータ・フルシチョフがクリミアをロシアからウクライナに割譲したのは法的な根拠がなく、違法なものであった。

②クリミア内のロシア系住民は脅威にさらされており、クリミアは強力な主権国家の一部でなくてはならない。それはロシア以外にはあり得ない。

③ロシアはウクライナの分割を望まず、これ以上の領土的野心はない。

④ウクライナの暫定政権は違法なものであり、これを認める西側諸国は偽善である。

 西側諸国によるロシアへの制裁は打撃となるものではない。

⑤ロシアは今後も、ウクライナに定住するロシア人、ロシア語を話す人々の利益を守る。

 このクリミア併合の際の欧米側の対応に問題があったとの指摘がある。

 ロシアに対する制裁が導入されたのは、クリミア併合から4か月後に発生した乗客の大半がEU諸国の市民だったマレーシア航空機撃墜事件(2014年7月17日)の後であった。

 また、ドイツのような主要国は経済協力を強化し、ガスパイプライン「ノルドストリーム2」の建設計画はクリミア併合の後にできた。

 もし、当時の対ロシア制裁が厳しかったら、ウクライナ戦争は起こらなかったであろうという指摘もある。