
“社史から消えた創業者”、江副浩正氏が1960年に立ち上げたリクルートは、同氏が去った後も力強く成長を続け、今や株式時価総額は17兆9007億円(2025年1月28日時点)。日本で4番目に価値のある会社になった。それだけでも奇跡だが、さらにリクルートは現代日本の企業に人材を供給する、稀有な人材輩出企業にもなっている。
リクルート出身者はなぜ仕事が「できる」のか。彼ら、彼女らは、リクルートでどう育てられ、何を学び、その後のキャリアでそれをどう活かしているのか。ベストセラー『起業の天才! 江副浩正8兆円企業リクルートをつくった男』の著者・大西康之氏が、各界で活躍する「元リク」をインタビュー、その秘密に迫る第1回のゲストは、大條充能さん(59歳)。
※このインタビューは『起業の天才!江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』文庫版(新潮社)の出版を記念して行われたトークショーをもとに作成した。
当時の採用のキーワードは「地方・貧乏・野望」
大西康之氏(以下、大西):大條さんは高校を卒業して1984年にリクルートに入社。主に総務部門で活躍され、97年に退社、翌98年に企業のイベント、総務業務などをサポートする「ゼロイン」を創業して社長を務めるかたわら、現在もリクルートの社内報「かもめ」で「お悩み相談」を連載されています。関係者の間では「リクルート最大のお祭り男」と呼ばれています。大條さん、よろしくお願いします。
大條:よろしくお願いします。
大西:まずリクルートに入社した経緯から伺います。私は大條さんと同い年ですが、84年当時のリクルートはあまり有名な会社ではありませんでしたよね。
大條:はい。都市部では黒柳徹子さんが出てくる「住宅情報」(SUUMOの前身)のコマーシャルなんかを流していましたから、ある程度の知名度はあったと思いますが、私がいた青森では全然。当時は日本リクルートメントセンターという社名で、僕が入った年の4月にリクルートに変わりました。「就職先はリクルート」と言うと「ヤクルト?」と聞き返されました。当然、私も何をやっている会社か知りませんでした。
大西:そんな会社になぜ就職を?
大條:高校は進学コースで、受験のための合宿をしていた3年生の夏休みに、リクルートに就職していた1学年上の大変優秀な先輩女性が来て、「大條くんにぴったりの会社があるの」というので、東京まで面接を受けに行き、そのまま入社しました。
大西:もともとは大学に進むつもりだったんですよね?
大條:ええ、自分は東京に行きたかったのですが、経済的な問題から東京に行くなら「国立大学」と言われていて、地元の弘前大学あたりが現実的な進路かなと。……で、二つの進路を自分の中で天秤にかけたら、「弘前大より銀座(注:当時リクルートは銀座に自社ビルを構えていた)」となりました。

大西:その頃、リクルートはどんな採用をしていましたか?
大條:同期は500人。そのうち高卒男子が30人、高卒女子が70人、短大女子が100人で、あとの300人が大卒男女。後から聞いた話ですが、江副さんは東大生が大好きでしたが、一方で「地方・貧乏・野望」も採用のキーワードにしていて、僕はそこにハマったんでしょうね。「とにかく優秀な人が欲しい」というんで、在日韓国人の方もずいぶん採用していました。
大西:当時の企業の採用は高卒と大卒、男子と女子の間に歴然とした壁があって、その後の進路はキャリア組とノンキャリア組に分かれましたよね。
大條:それが全然、なかったんです。一般職とか総合職とかそういうのは全然なくて、高卒も東大もみんな横一線。よーいどんで競わされるんです。