写真提供:共同通信社

 東京大学在学中にリクルートを創業し、グループ27社を擁する大企業に育てた江副浩正氏(1936~2013年)。1989年に「リクルート事件」で逮捕されるまで、卓越したベンチャー経営者として脚光を浴び、没後10年を過ぎた現在も高い評価が聞かれる。レジェンドとなった“ビジネスモデルの革命児”は何が優れていたのか。本連載では『起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(大西康之/新潮社)から内容の一部を抜粋・再編集し、挑戦と変革を追いつづけた起業家の実像に迫る。

 今回は、流通革命で知られるダイエー創業者の中内功氏(「功」は正しくは「工偏に刀」)との出会い、「書中の師」と仰いだピーター・ドラッカー氏への傾倒を紹介する。

安売り王

 中内功(なかうちいさお)(「功」は正しくは「工偏に刀」)がスーパーマーケットの「主婦の店・ダイエー」を社員13人でスタートしたのは1957年。中内は「商品の価値を決めるのは川上(かわかみ)のメーカーではなく川下にある」とする消費者主権の小売哲学によって日本に流通革命を巻き起こした。13年後の1970年には「ダイエー」は社員7700人の大企業にのし上がる。

 高度経済成長を支えたのは輸出だけではない。国内消費もまた、重要な経済の担(にない)手だった。人々はまず食料品や衣料品を求め、やがて家電製品やマイカーを求めるようになる。旺盛な消費を満たすため全国にスーパーマーケットが立ち並び、店先という“成長の最前線”に立ったのは高卒の販売員だった。

 中内と江副ふたりの最初の出会いは、江副の自伝によれば1963年。ふたりとも大阪生まれで不思議とはじめからウマがあったという。

〈 阪急神戸線西宮北口駅から徒歩五、六分の西宮市森下町にある「主婦の店・ダイエー」の社長応接室だった。ダイエーはまだ十店舗ほどの規模で、社長応接室も畳六畳程度の簡素な部屋だった。
 左の胸にオレンジ色で「主婦の店・ダイエー」とプリントされたユニフォームを着て中内さんは入ってこられた。私が大学新聞の求人広告をお願いしたら「半値なら(全国の大学新聞に)まとめて出してもええですよ」と言われ、驚いた 〉
(『かもめ』)