記者の基本として、質問は短いほど効果的だ。相手に逃げ道を考える時間的余裕を与えず、端的に突いてゆく。短く何度も、冷静に畳み掛けてゆく。反対に延々と自説を熱く述べるような質問は、回答者を内心でほくそ笑ませる。神妙に傾聴しているような顔をして「責められて可哀想な人」を演じながら、頭の中でじっくり言い逃れ方を組み立てられるのだから。

 そうやってヒートアップした“記者”達は今、自分が結果的に会見者側を利する役回りを担ってしまったことを、自覚し悔やんでいるのだろうか。「皆の面前で吊し上げてやったぜ」などと自己満足を感じているのだとしたら、また何か注目事件で次のオープン会見が開かれる時にも、乗り込んで来て同じ振る舞いを繰り返すのだろうか。

自称“記者”のパフォーマンスで会見の質が落とされる

 実はこの問題は、今回浮上したことではない。

 例えば2004年4月、イラクで日本人ボランティアなど3人が武装勢力に拘束された人質事件のとき。解放されて帰国した3人の記者会見をオープン参加にするかどうかで、救援本部は苦悩した。

「自己責任」「税金泥棒」といった言葉で3人をバッシングする声がネット界(今よりはずっと威力が小さかったが)に飛び交う中で、無防備にブロガーなどを会見場に入れたら、暴力的な糾弾大会になってしまうのではないか? 身の安全のためにも、ここは所属の確かな大手メディア記者だけに、入場を制限すべきか?

 そんなことを、皮肉にも普段は記者クラブ制度の閉鎖性などに批判的な考え方の弁護士や市民運動家で構成する救援本部が、議論しなければならないジレンマに陥っていた(結局その時は、発信実績等の条件付きセミオープンのような形で落ち着いたが)。

 そして2010年、民主党政権が首相官邸の会見をフリーランスにも徐々にオープン化した時。内閣広報室が実は本音で身構えていたのは「馴染みの記者クラブ以外のジャーナリストに鋭く突っ込まれること」以上に、「自分の存在アピールが主目的であるような自称“記者”のパフォーマンスで会見の質が落とされること」だった。