視聴者を引き込むストリップ・バーでの演出

 アノーラの暮らすブライトン・ビーチのエリアは、一般的にはニューヨーク中心部から一番近いビーチとして知られているが、観光客で賑わうボードウォークから少し離れれば、旧ソ連のウクライナやウズベキスタン、ジョージア系のレストランや食料品店が広がる、どちらかというと低所得者が暮らすエリアだ。

 アノーラの働くバーはマンハッタンにあると思われるが、バーの営業が終わる時間帯の、深夜から早朝にかけてニューヨークの地下鉄に乗ったことがある人ならば、マンハッタンからブライトン・ビーチの距離を、待てども暮らせども来ない地下鉄を待って家に帰る苦労は並大抵でないことがわかるだろう(ニューヨークの地下鉄は24時間運行だが、深夜になればなるほど本数が減りダイヤも乱れる)。

 このようなアノーラの現実を活き活きと描いていることが、この映画の最大の魅力のひとつだ。

 映画の冒頭、バーで働くアノーラを丹念に追いかけるシーンは、撮影用に貸し切ったストリップ・バーに配されたエキストラが本物の客やスタッフのように振る舞うなか、アノーラを演じるマイキー・マディソンが、まるでそこで実際に働くかのように自由に歩き回りながら男性客に声を掛けながら撮影されたという。

 このようなシーンを撮影する場合の多くは、どこからどこまで歩いて、誰に話しかけて、このようなセリフを話す、と事前に動きや台本を決めた上で、その部分だけ撮影するのが通常だが、本作でのベイカーはマディソンの自然な演技を引き出すために、約30分間、自由に歩きながら実際に客に声掛けをするように演出された。

 ここでは、マディソンは客から断られ続けることのみが事前に決まっていて、あの手この手で説得するアノーラと客とのやりとりは必見の面白さだ。

 また、通常は撮影後の編集で使いやすいように、エキストラは口を動かしても声を発さないというかなり不自然な状態で撮影するのだが、このシーンではエキストラも実際に話して撮影することを選択したことで、まるでドキュメンタリーを見ているかのように自由に振る舞うマディソンの表情や身体が映し出されている。