三宅島へ流罪になった理由とは?

 絵師として名を上げる一方で、一蝶は遊びにも精を注いだ。吉原に通いつめ、幇間(男芸者)として働いた時期もあった。大名や豪商に可愛がられ、一説によると紀伊国屋文左衛門も贔屓にしていたとか。色町での交流や人脈が広がると、トラブルに巻き込まれてしまうのが世の常。1698(元禄11)年、英一蝶は三宅島に流罪になってしまう。

 有罪の理由には諸説あるが、主なものとして以下の3つが伝えられている。①時の将軍・綱吉が制定した生類憐みの令を皮肉った流言の出どころとされたため。②綱吉の母である桂昌院の甥っ子・本庄安芸守資俊を吉原に引き込み、遊女を身請けさせるなど大散財させたため。

 そして、③英一蝶が描いた一枚の絵が綱吉の逆鱗に触れたため。怒りの元になった作品は重要文化財《風俗画絵鑑》の第六図「朝妻船画賛」。本展で鑑賞することができるので、ぜひご覧を。

 この絵の何が悪かったのか。朝妻船とは琵琶湖東岸の朝妻と大津を結ぶ渡し舟のことで、遊女が乗って客をとることでも有名だった。本作には柳の木の下に舟を停め、もの思いにふける遊女が描かれている。

 実はこの頃、江戸ではあるゴシップが流れていた。「将軍・綱吉に寵愛されて大出世した柳沢吉保。その妻・染子はもともと綱吉の妾で、吉保と結婚した後も綱吉と関係を続けている。しかも吉保の子供は実は綱吉の子だ」というもの。そうした中、一蝶が描いた「朝妻船画賛」の遊女は綱吉の愛妾をやつしたものとの噂が広まり、一蝶は流罪の刑に処されたのだという。