言葉の違いによらない「言語の本質」

 さて、ここまでで原稿を終えてもよいのですが、私も現役の官学教授で、本稿は中学高校生つまりZ世代α世代も読んでいると分かっていますので、もう少し教育的にきちんと補っておきます。

 こういう勉強をしておくと、東大などに進んだ後、伸びます。東大など大学受験に役立つかどうかは「役立てられる力があるか否か」にかかっていると、一応書いておきましょう。

「古典」「古文」を日本語だけで見ていると、相対化ができませんから、英語など別の言語で考えてみる。比較言語、比較文学につながる観点で検討してみます。

 いま仮に「生成AI」の「生成」という言葉、これの原語が分からないので調べるとしましょう。

 辞書を引くとジェネラティブ(generative)と出てくるはずです。

 さて、仮にこの言葉が目新しいとした場合、少しでも言語というものが分かっている人なら、「新語」は「語源」「etymology」から調べるのです。

 そうすると、他の言語との関係などが透明に見えて来るし、暗記しなくても意味が記憶に残る。

 そして何より「集合的無意識」に通じる勘が育つ。新語を見たとき、その意味が教えられなくても分かるようになる。

 ちなみに「入試で知らない言葉が出てきたらどうしよう・・・」と心配する受験生がいますが、逆ですよ。

「必ず知らない単語が出てくる」と最初から腹をくくっておく方がよい。そして知らない単語でも、その意味が類推できるのが、言葉を理解する本当の実力です。

 東大を含む「記述式」入試を問う大学は原則、すべてそうした本当の「実力」、暗記物でなく思考力ある若者をキャンパスに招き入れたいと考えていると思います。

 さて「生成AI」の生成はジェネラティブであると分かった。

 この「ジェネラティブ」は「ジェネレート(生み出す)」から派生し、元はラテン語の「genero(命を与える)」「造り出す」から出ている。

 ラテン語から出ているから、フランス語やドイツ語など、欧州言語全般に共通する語彙があることが察せられます。

 さらにラテン語としてのgeneroも、さらにその語源である「genus(誕生、出身、血統、家系、人種、性別)」から発し、さらにその語源はギリシャ語の『ゲノス(このコラムはギリシャ文字を使わないのでカナ表記しますが)』=「人種、親族、部族、国家、動物の品種、年齢、世代、性別・・・」と根っこが同じと分かります。

 ここから「ジェンダー(gender =性別)」とか「ジーン(gene=遺伝子)」さらには「ジーニアス(genius=天才=生まれながらの才、原義は「守護霊」)」などまで、言葉の起源がつながっていることが分かる。

「綾鷹」で高級感をイメージするのと同様、言語に対する意識下の勘が備わってくる。

 そうすると、皆さんお聴きになったことがあるだろう「ヒトゲノム」などというときの「ゲノム(genome)」という言葉も、明らかな造語で、作った人はシドニー・ブレナーという人物ですが、これも先ほどの「gene(遺伝子)」と「chromosome(染色体)」を繋げたもので、特段解説しなくても「英語の感覚」がある人にはすんなりと受け入れられたわけです。

「綾鷹」が緑茶飲料業界でシェアを獲得したのと同じように・・・。

 このように「新語」は常に一定遡った「旧語」から合成されていきます。そしてそれは現代語であるとは限らない。

 潜在意識の下にある古い言語が頻用されるのは、日本語でも同様。

 伊右衛門なんて人名は21世紀生まれにほとんど命名されませんが、お茶なら売れるわけです。

 私たちは日常生活でラテン語もギリシャ語も使いません。でも、京大や東大程度の入試に合格し、さらにその中で普通に伸びる子供は、これくらいのことは普通にフォローしています。

 要するに「古典なんか使わない」ではなく「使える」か「使えないまま終わるか」だけの違いでしかない。

 逆に、AI同様、何でも個別に暗記して入試だけクリアしても、大学に入ってから「ついていけない」(学問の王道を知らず不合理な受験勉強を成功体験と錯覚してしまった)「誰に何を尋ねたらよいか分からない(コミュニケーション能力の改善が望まれる)」といった学生が、毎年結構な割合で「留年・降年」し、一定の数が毎年大学を密かに去っている、悲しい現実にも触れねばならないでしょう。

 事情を知らない親などは、もしかすると勘違いしている可能性が懸念されます。

「東大まで入ったんだから、もう安心」あるいは「東大卒業して第一志望の企業に入ったのだから、もう安心」などと。

 安心じゃなかった人のケースは広く報道されているものもごく一部ありますが、水面下では無数に存在しています。

 個別のことは書けませんが、そういう事実があることは広く社会に認識していただく必要があるでしょう。

 一を聴いて十を「自ら調べ自ら学び」使いこなせるようになる人材は「使える奴」ということになり、それなりに人生行路が開けていく。

 そうではないケース、「一生役立たない」と思いつつ、表面上勉強したフリで試験を通過してしまった子は、生涯それを生かすことができない。

 まさに「悪循環」で、これを望ましい循環に変えるべきですから「好循環」という造語をかつて30代の私も考えてみたわけです。

 特定の教科を「役に立たない」と断じることで、かえって第三者から、その人自身が「役に立てられない人」と見られないよう、注意する必要があるでしょう。

 人事や経営首脳から、あいつは「使えねー奴」などと烙印を捺されたら、長らく負の遺産となりかねない話です。