メジャー転向のパイオニアも挫折の連続だった

 近年多くの日本人選手がメジャーリーグで活躍しているが、メジャー転向のパイオニアといえば野茂英雄氏。だが彼もまた、挫折の連続だったそうだ。

 名門高校のセレクションに落ちるも、大阪大会で完全試合を達成した野茂氏。しかし、話題はすべてPL学園のKKコンビ(桑田真澄氏と清原和博氏)に持っていかれた。高校卒業後、月9万円の初任給で働きながら社会人野球を続けていた野茂氏は、1988年のソウル五輪日本代表に選出される。

 その後も挫折と挑戦を繰り返し、ついに球界入りを果たすが、これで安泰かと思えばそうではなかった。

球団幹部には「キミのことはエースとして扱っていない。最多勝のタイトルは意味がない。内容がない」と言い放たれた。(中略)上司である監督とぶつかり、球団という会社に対する不信感を抱き、彼はひとり夢を追いかけ海を渡った。

 日本で大きな実績を残した野茂氏だが、球団や監督との不和はどうしようもない。しかし、その挫折が彼をメジャーへ駆り立てたのならば、これほど後世に大きな影響を与えた挫折もないだろう。

1995年、ロサンゼルス・ドジャース入団を発表する野茂英雄(写真:AP/アフロ)

ひたすら投げた野球人生で掴んだもの

「髭」がトレードマークのピッチャー下柳剛氏もまた、挫折に次ぐ挫折から這い上がってきた1人である。キャリアスタートの社会人野球時代から、それほど周囲の期待を背負っているわけではないと自覚していたため、1年365日毎日練習に励んだ下柳氏。

 プロになった後も、「やるだけやる」の精神で投げさせてもらえるだけ投げ続けた。ハードスケジュールの中で、床屋に行くのも面倒になり無精髭がトレードマークになったのもこの頃である。

髭がトレードマークだった下柳剛投手。写真は阪神時代の2009年(写真:共同通信社)

 とにかく投げまくるスタイルは、交通事故で顔にボルトを入れた時も、リストラに近い形で球団を移籍した時も変わらなかった。そして、投げ続けることで、挫折から何度もはい上がってきたのだ。

 そこまでできたのは、彼の強靭な肉体があってこそだろう。しかし、挫折に腐らず「やるだけやる」とがむしゃらに頑張る精神は、我々も見習えるのではないだろうか。