4月5日、ウクライナ検察庁は、キーウ近郊の町で410人の遺体を発見したと発表。見つかった遺体の数はその後も増え、ブチャとその周辺の集落で計1400人以上が殺害されたと推計されている。

憎しみの矛先はプーチンだけでなく全ロシア人へ

 ロシア軍が占拠した地域で起きたのは虐殺だけではなかった。ほとんどの家が略奪されたほか、民族独立の象徴とされる詩人タラス・シェフチェンコの銅像や学校に掲げられた写真がことごとく破壊されていた。

 シェフチェンコは1814年に生まれ、ロシア帝国によるウクライナ民族主義に対する弾圧で何度も投獄されながらウクライナ語で抵抗の詩を書き続け、47歳の若さで亡くなった。ソ連時代になっても、彼の銅像に花を捧げると「ウクライナ民族主義者」として警察の取り締まり対象になった。ウクライナ人にとっては民族の英雄であり、独立後はどの町にも彼の銅像が建てられ、現在の100フリヴニャ紙幣には彼の肖像が描かれている。

詩人タラス・シェフチェンコの肖像が描かれたウクライナの100フリヴニャ紙幣(ТамараГончарук, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 侵攻したロシア兵はウクライナ人を人間扱いせず、民族のアイデンティティを侮辱し踏みにじったのだった。これはロシアとロシア人に対するウクライナ人の感情を決定的に変える転機の一つになった。

「解放」されたリマン(ドネツク州)で営業を再開した食料品店。「ロシア軍が町に入ってきたが、年老いた両親がいて避難できなかった。ロシア軍が駐留していた間は、店を閉めて外に出ないようにしていた」と女主人は語る。ロシア軍が町に入ってきても、さまざまな事情で、家に留まらざるを得なかった人も多い(筆者撮影)

 私の通訳のユーリーは、当初この戦争を起こした責任はプーチンにあり、一般のロシア人に罪はないと思っていたが、占拠された地域が解放されて明らかになった事実を知ったあとはロシア人そのものを許せなくなったという。

「あいつらロシア人は野蛮で、ウクライナ人を見下げているんだ。だからロシア人は、ウクライナを侵略したプーチンを支持し続けているんです」