(英エコノミスト誌 2023年12月16日号)
米国の大統領選挙がこの命題の試金石となる。
ジャーナリストたる者、ジャーナリズムについて文章を書くことに多くの時間を費やすべきではない。
世界は、その世界について報じる人間のインキくさい習慣よりもはるかに面白いからだ。
だが、本誌エコノミストは今週、例外的にジャーナリズムを論じることにした。情報を見つけてそれを広めることは、政治にとって非常に重要なことだからだ。
本誌の言うことを鵜呑みにしてはいけないので、先人の言葉を引いておこう。
米国第4代大統領のジェームズ・マディソンは1822年に「人民が知識を持たない、あるいは知識を得る手段を持たない状況での人民政府は茶番か悲劇、ひょっとしたらその両方の前触れでしかない」と記した。
また第3代大統領のトマス・ジェファーソンは、新聞がない状況での政府と政府がない状況での新聞のどちらかを選ばねばならないとしたら、自分は報道を選ぶと述べた。
(もっとも、これは少し言い過ぎだろう)
米国の分断を深刻化させる内的な力
米国の名門大学における反ユダヤ主義をめぐる騒動が示しているように、人々が建設的に議論したり、意見を異にしたり妥協したりできる政治文化を創り出す行為は、自然発生的に始まるものではない。
メディアにおいては、ビジネスモデルと技術、そして文化が一緒になってそうした状況を創り出す場合がある。
逆の方向に引っ張られる場合もある。
本誌が新聞・雑誌やテレビにおけるジャーナリズムの成果を60万件以上分析した限りでは、米国の主流派メディアが使う言葉は政治的な中道から離れ、民主党が好む術語や話題の方にシフトしてきた。
これでは、保守派の間でメディアに対する信頼性が低下しかねない。
米国が来年の選挙に備えるなか、この分断を深刻化させた内的な力について考える価値がある。
メディア業界がその長い歴史において何度も打ちのめされ、それでも何とか生き延びてきたという事実には、安心できる部分もある。
ただ懸念されるのは、今日の変化が過去のどれよりも悪い変化かもしれないことだ。