日頃の厳しい訓練と高性能の戦車部隊は万が一の有事の際には頼もしい存在だ(写真は令和5年富士総合火力演習、陸上自衛隊のサイトより)

1.陸上自衛隊・戦車部隊の変遷

 前回「陸上自衛隊の戦車が本州・四国から姿を消した!」)で、陸上自衛隊の大変革について解説した。

 特に機甲科部隊の変遷について強調した。

 実は、東アジア情勢の変遷に伴い機甲科部隊は創隊以来、その姿を逐次変更してきている。

 昭和25年(1950年)朝鮮戦争の勃発を踏まえ警察予備隊が発足したが、戦車等の重装備品の保持をGHQ(連合国軍総司令部)は認めなかった。

(朝鮮戦争終了直前、戦車の供与について検討された事実は存在する)

 朝鮮戦争終了に伴い昭和27年(1952年)GHQの指示により保安隊が設立された。

 この時、GHQは日本国内の治安維持を日本に任せるとして、初めて重装備品である戦車(当時は特車と称していた)「M24(チャーフィー)」戦車(75ミリ砲、重量18.4トン、乗員5人)の無償供与を逐次開始した。

 総数は375両であった。併せてGHQは日本における国産戦車の開発製造を認めた。

 ちなみに、米国が戦闘機や潜水艦等の開発製造許可を出したのは、通常型潜水艦は原子力潜水艦が出現してから、戦闘機はここ10年弱前になってからである。

 M24の無償供与開始によって、昭和20年に終了した国産戦車の設計製造が7年ぶりに開始された。

 そしてその2年後、昭和29年(1954年)自衛隊の発足に伴い米国は「M4(シャーマン)」戦車(75ミリ砲、重量30.3トン、乗員4人)の無償供与を逐次開始した。総数は232両であった。

 さらに情勢の変化(日米安全保障条約改定に伴う市民運動の激化など)を踏まえ、昭和36年(1961)から「M41(ウォカーブルドック)」戦車(76.2ミリ砲、重量23トン、乗員4人)を遂次、有償供与した。総数は147両であった。

 奇しくも、戦後国産第1号となる「61式」戦車がデビューした年でもある(61式戦車の開発製造には約9年の年月を要したことになる)。