京都御所御内庭 写真/アフロ

(歴史学者・倉本 一宏)

検非違使の最初の人物

 久々の再開であるが、ここから六国史の五つめ、『日本文徳天皇実録』に入る。『日本文徳天皇実録』は、文徳(もんとく)天皇の一代を対象とする。嘉祥三年(八五〇)三月から天安二年(八五八)八月に至る八年六箇月を収録している。十巻。六国史の中ではじめて「実録」の書名を採用しているが、これは次の『日本三代実録』に踏襲された。貞観十三年(八七一)に清和天皇が右大臣藤原基経や南淵年名・大江音人・善淵愛成・都良香・島田良臣に詔して第一次の編纂を行なったが、清和天皇の譲位や編者の死没などで中断し、元慶二年(八七八)に陽成天皇の勅により基経・良香・良臣に菅原是善を加えて第二次の編纂を行ない、翌年、完成して奏進された。人物の伝記が豊富であり、『続日本後紀』までは原則として四位以上に限っていた薨卒伝を、五位にまで拡大して記載している。

 最初は、『日本文徳天皇実録続』巻二の嘉祥三年(八五〇)十一月己卯条(六日)に載せられた、興世書主(おきよのふみぬし)の卒伝を見てみることとしよう。

 

従四位下治部大輔興世朝臣書主が卒した。書主は右京の人である。本姓は吉田連。その先祖は百済から出た。祖父は正五位上図書頭兼内薬正相模介の吉田(きった)連宜(よろし)。父は内薬正の正五位下古麻呂(こまろ)。並びに侍医となり、累代、供奉した。宜らは兼ねて儒道にも長じており、門徒は多くいた。書主は恭しく謹み深い性格で、立ち居振る舞いに見るべきものがあった。昔、嵯峨(さが)太上天皇が親王であった時、特にその進退を憐れみ、延暦二十五年に尾張少目となり、大同四年四月に縫殿少允となった。弘仁元年正月に遷任して内匠少允となり、四年五月に遷任して左兵衛権大尉となった。七年二月に転任して左衛門大尉となり、兼ねて検非違使の事を行なった。しばらくして遷任して右近衛将監となった。書主は儒道に長じているとはいえ、身軽で敏捷であり、跳躍力があり、水泳にも優れているなど、まるで武芸の士のようであった。和琴もよく弾き、大歌所別当となり、節会に常に供奉した。また、新羅人の沙良真熊(さらしんゆう)に伝習して、よく新羅琴を弾いた。書主は真熊に随って伝習し、遂に秘道を得た。八年正月に外従五位下に叙され、織部正に拝された。九年正月に和泉守となり、その治世は名声が高かった。十二年正月に従五位下に叙され、十四年正月に従五位上に叙され、備前守となった。この時、任期が終わって未だ帰らないうちに、その統治によって平安京へ向かう路は清らかに治まっている様子であった。天長四年に還任して左京亮となり、五年二月に筑後守に拝されたが、身病を患っているというので固辞して行かなかった。八年二月に更に左京亮となった。承和四年に上請し、改姓して興世朝臣となった。七年正月に信濃守となり、九年正月に正五位下に叙され、十二年に木工頭に拝された。十四年正月に従四位下に叙された。嘉祥三年八月に遷任して治部大輔となったが、年が老い、身が衰えているというので、山林の地に隠棲し、常に観念を行なった。卒した時、年七十三歳。

 

 吉氏(吉田連)は孝昭天皇の子孫である彦国葺命の後裔を称する皇別氏族。崇神朝に彦国葺の孫の塩垂津彦命が任那の三己汶に派遣された際、当地では宰のことを吉と称していたことから、子孫は吉姓を名乗ったという(『新撰姓氏録』)。

 実際は、天智十年(六七一)に塩垂津の八世孫を称する吉大尚と弟の少尚が百済から日本に渡来して医術を伝えたというのが(『続日本後紀』)、史実なのであろう。

 宜は元は僧で、恵俊を名乗っていたが、文武四年(七〇〇)に医術に優れていることを理由に還俗して吉宜の氏名を与えられた。神亀元年(七二四)に大和国田村里に居住していたことから、一族の智首と共に吉田連に改姓した。天平十年(七三八)までの生存が確認できる。『懐風藻』によれば、享年七十歳。

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  その子の古麻呂は、内薬佑・豊前介を経て、侍医兼内薬正となり、常陸大掾を兼ねた。延暦五年(七八六)まで生存が確認できる。

 その子が書主ということになる。宝亀九年(七七八)に右京に生まれ、医道と儒道を習練した。恭しく謹み深い性格で、立ち居振る舞いに見るべきものがあったという人となりであったという。

 それのみならず、身軽で敏捷であり、跳躍力があり、水泳にも優れているなど、身体能力も抜群であった。さらに和琴もよく弾き、また、新羅琴も弾くことができた。まさに医・文・武・楽のいずれにも優れた、まさに万能の人であった。

 こんなすごい人ならば、さぞかし出世したかというと、そうはいかない。氏族や父祖の位階による昇進の上限が厳しく定められていた当時にあっては、百済系渡来人の子孫が高位高官に上る途は、ほぼ閉ざされていたのである。

 それでもこれほど有能な者を、神野親王(後の嵯峨天皇)は放っておかなかった。特に抜擢して、延暦二十五年(大同元年.八〇六)に二十九歳で尾張国の四等官である少目となり、大同四年(八〇九)に三十二歳で縫殿寮の三等官である少允となった。翌弘仁元年(八一〇)に三十三歳で内匠寮の三等官である少允となり、弘仁四年(八一三)に三十六歳で左兵衛府の三等官である権大尉となった。抜擢されたとはいえ、この程度の卑官にしか任じられないのが、身分制社会の限界であった。

 弘仁七年(八一六)に三十九歳で左衛門府の三等官である大尉となり、兼ねて検非違使に補された。これが令外官検非違使の初見である。教科書などでも有名な検非違使として最初に見えるのは、この書主なのであった。しばらくして右近衛府の三等官である将監に遷任された。同じ三等官とはいっても、天皇の護衛にあたる近衛府の官人の方が、格は高いのであった。嵯峨天皇はようやく、自ら見出した書主を、身辺に置くことができたのである。

 翌弘仁八年(八一七)に外従五位下に叙され、織部正に拝された。地方豪族や渡来系氏族に授けられる外位とはいえ、貴族の末端である五位に達し、下級官司とはいえ、はじめて長官に任じられたことになる。四十歳の春であった。

 弘仁九年(八一八)に和泉守となったが、これは書主の出自としては破格の出世であった。その治世は名声が高かったとあり、国司としても有能ぶりを発揮したようである。弘仁十二年(八二一)に四十四歳で従五位下に叙され、名実ともに貴族階級に上った。弘仁十四年(八二三)に四十六歳で従五位上に叙され、備前守となった。

 天長四年(八二七)に五十歳で中央に戻り、左京亮となった。しかし、翌天長五年(八二八)に五十一歳で筑後守に任じられたが、身病を患っているというので固辞して赴任しなかった。天長八年(八三一)に更に左京亮となった。

 六十歳を迎えた承和四年(八三七)に一族の外従五位下越中介の高世らと共に改姓されることを請い、興世朝臣となった。承和七年(八四〇)に六十三歳で信濃守となり、承和九年(八四二)に六十五歳で正五位下に叙され、承和十二年(八四五)に六十八歳で木工頭に拝された。承和十四年(八四七)に七十歳で従四位下に叙された。

 嘉祥三年(八五〇)八月五日に七十三歳で治部大輔に任じられたが、年が老い、身が衰えているというので、山林の地に隠棲し、常に観念(心静かに智慧によって一切を観察すること)を行なった。卒したのは十一月六日のことであった。

 当時は四十歳で長寿の祝いをするくらいであったから、七十三歳といえばかなりの老齢ということになる。渡来系氏族でありながら、八省の次官にまで上ったのであるから、あっぱれな出世であると言えようが、その能力からすると、こういった人をもっと出世させればいいのにという感も否めない。中国的な官僚主義に従来の門地主義を合わせた日本的な律令官人制の、このあたりが限界であろう。

 なお、興世氏の官人としては共に姓を賜った一族の高世の名は知られるものの(承和十年(八四三)に従五位下右京亮に上ったのが最後の所見)、書主の子孫は史料に見えない。高世の子孫も史料には見えず、いったいこの氏はどうなってしまったのかと考えてしまう。またウジ名を替えて活躍していてくれればいいのだが。

 余談だが、天慶の乱で平将門に関東制圧を持ちかけた武蔵権守興世王というのがいたが、皇親は養育氏族のウヂ名を王名とすることが通例であることから、興世王を資養したのはこの興世朝臣であった可能性もある。