生涯一度の純愛
笠置がその生涯をかけて愛した男性はただ一人、自分より9歳年下の吉本穎右(えいすけ)、吉本興業社長・吉本せいの次男でした。出逢いは昭和18年6月、太平洋戦争真っ盛りの頃で、吉本はまだ20歳、美男で知られる早稲田の学生でした。
空襲下の東京ではありましたが、一緒に暮らし始めた二人にとって、短いながらもそれは人生で一番幸せな日々だったことでしょう。
戦後、すでに結核を患っていた穎右は昭和22年5月に亡くなります。24歳の若さでした。33歳の笠置が穎右の忘れ形見を出産するのは穎右の死後、わずか半月ほど後のことでした。
夜の女性たちにも愛された人柄
笠置が「ブギの女王」として一世を風靡した時代とは、カストリ、パンパン、かつぎ屋、戦犯、ベビーブーム、アプレゲールといった言葉が横溢する混沌(カオス)の時代。そうした時勢を背景に、ひと声聞いただけで日頃の鬱屈を吹き飛ばしてくれるような音楽が登場したわけです。
ジャズやブルースが黒人たちの喜怒哀楽やどうしようもない心の叫びから発生したように、地声で叫ぶように歌う笠置の声は、日々苦しい生活に追われる日本中の老若男女、まさに幼少だった美空ひばりから当時の東大総長までとりこにしたのです。
当時、笠置は30代半ばでしたが、シングルマザーとして乳飲み子を抱えての仕事ぶりがマスコミに報じられ、夜の街のお姉さんたちの琴線に触れたのでしょう、有楽町ガード下で働く街娼のお姉さんたちが目と鼻の先にある日劇での公演の際には、舞台近くで親衛隊のように応援したそうです。
私を含めた高年齢層が近年のミリオンセラーの曲名すら知らない令和の時代とは「歌の持つ力」が違っていました。