ブラジル・サンパウロで日本人の経営する安宿のドアを叩くと、肥満気味のやり手の女主人が出窓の格子から顔を出した。「ヘヤ、ミテミル?」。彼女は日系2世。少し妙なイントネーションの日本語を交え、古いコロニアルなアパート内の客室へと私を案内する。

ブラジル・サンパウロ
今ここ!

 建物は結構な年代物で、部屋はドミトリーのみ。トイレ、シャワーは共同。飴色にワックスで磨き上げられた木の床板。壁には孫や娘の家族の写真がところ狭しと掲げられ、知人の家に居候として厄介になるような、客として気兼ねなく振る舞えないような、窮屈で、くつろぎにくい雰囲気が漂っている。

 ロビーを覗くと3人の長期滞在者がけだるそうに会釈をした。この宿は以前は世界3大安宿としてバックパッカーの間ではその名を轟かせていた。だが、日本人専用の宿のため、金額的にはそれほどの割安感がない。近くの東洋人街で中国人らが経営する「個室、トイレ、シャワー付き」の宿とほぼ同じ金額である。

 しかし、長期滞在する者にとっては宿泊費十日分の前払いで1カ月滞在ができるというちょっと変わったシステムがあり、現在も長期旅行者の「沈没」施設としては健在だ。

何とも言えない安らぎを感じる日本人街

 南米にはボリビアやパラグアイなど日本人街がいくつかあるが、サンパウロのリベルダージはアメリカのリトルトーキョーと並んで、世界で最も大きい日本人街である。

日本人街にある日本風の建物

 商店街は提灯を模した街灯が延々と続き、大きな赤い鳥居のある大阪橋が高速道路の上に架かり、街のいたるところに日本語の文字や看板がひしめく。

 食堂には暖簾が掲げられ、八百屋の前では買い物袋を提げたおばさんが談笑し、路地裏では男たちが碁盤を囲み、碁石を打つ音が心地よく響く。演歌の流れる酒場には仕事を終えたばかりの親父たちがネクタイを緩め、物思いにふける。

 風土、習慣、気質、食べ物など日本とは異なる地球の反対側を旅し、この日本人街にたどり着くと、何とも言えない安らぎを私は覚えるのだ。

 大正から昭和にかけて、生活の場を新天地に求めて日本から多くの人たちが一家を挙げてこの地に渡った。これらの人々の子孫が日系人として南米の大地に根付いている。

 ここ十数年、日本からブラジルへという人の流れは逆流し始め、豊かな経済大国、日本に多くのブラジル日系人が出稼ぎに来るようになった。だが、国際化の進む現在であっても、島国の日本では同胞のブラジル日系人を「異質」と捉える考えが根底にあり、彼らに対して少なからず冷ややかな雰囲気があることは否めない。

 その昔、我々の祖父母、もしくは父母たちの世代の日本人は、夢を抱いて、荒波の海を越えて南米に渡った。その先祖の故郷、日本で冷遇されることに、彼らは言いしれぬ戸惑いを感じているに違いない。

 なぜなら日系人の生まれ育った彼らの国ブラジルでは、黒人、白人、アジア人を分け隔てなく受け入れてきた。その中で、彼らは生きてきたのだ。