「明智光秀の失態」は文献にどう書かれているのか

 今回の大河ドラマでは、家康が「本能寺の変」に深くかかわっていたのではないか、という説をとっている。

 動機は、妻の築山殿と、子の松平信康を信長によって死に追いやられたことへの復讐だ。あの日以来、人生から色を失った家康は、信長を亡き者にするまでは、一歩も前に進むことはできない。それほどの覚悟さえ感じられた。

 家康は家臣たちと安土城を訪れて、いよいよ実行する日が近づいてくる。見せ場となったのが、明智光秀が供応役を務めた宴会だ。実はこの宴会こそが、「本能寺の変」の原因となったとする説もある。

 ドラマでの描かれ方の前に、まず、もとになっている『川角太閤記』での記述を見てみよう。『川角太閤記』は、江戸時代初期に成立したといわれる、豊臣秀吉の生涯を描いたものである。

「夏故、用意のなまざかな、殊の外、さかり申し候故、門へ御入りなされ候とひとしく、風につれ、悪しき匂ひ吹き来たり候。其のかほり御聞き付けなされ、以の外御腹立にて、料理の間へ直に御成なされ候。此の様子にては、家康卿御馳走はなる間敷と、御腹立ちなされ候て……」

 夏だったので、用意した生魚が腐ってしまい、風に乗ってひどい臭いが漂ってきたという。これでは、その臭いに気づいた信長は家康の供応役は任せられないと、立腹。光秀は供応役から外されてしまった、という逸話である。

『川角太閤記』の史料価値は低く、そうした事実があったかどうかは怪しい。ただ、光秀が供応役から外されているのは確かなことから、「そのことを恨んで、光秀は信長の殺害を決意した」とする説が唱えられている。

 一方、『どうする家康』では、この宴会がどんなふうに描かれたか。注目すべきは、光秀が信長に準備万端である旨を報告し、毒物をみせながらこう耳打ちしたことだ。

「お望みであれば徳川殿の料理に入れることも」

 それに対する信長の返答は視聴者にはわからないまま、宴会当日を迎える。すると、家康は、出されたコイが臭うというそぶりをする。これこそが家康が考えた「光秀を遠ざけるための策」だった。

 案の定、信長は激怒。光秀の「臭うはずがありませぬ。徳川殿は、高貴な料理になじみがないのでございましょう」という失言もあり、散々に折檻されたうえで、供応役から外されている。

 まさに、「光秀を遠ざけたい」という家康の思惑通りになったわけだが、家康も視聴者もちょっと思ったのではないだろうか。

「さすがにキレすぎでは……」

 だが、あそこまで信長が激怒した理由も、ドラマをよく見ればわかる。信長は「光秀が毒を盛ったがゆえに、コイから臭いがした」と勘違いしたのだろう。光秀も瞬時にそう理解したがゆえに、暴力を振るわれながらも「私は何も細工は。上様のお申しつけ通り、私はなにも」と必死に伝えようとしている。

 信長は毒を盛ることには反対し、光秀もそれに従ったのだが、家康の芝居で思わぬ展開を呼ぶことになったようだ。家康からすれば、光秀が余計なことをしてくれたおかげで、計画がスムーズにいったことになる。

 ドラマでの光秀がやらかした最大のしくじりは、信長の機嫌をとろうと「毒殺」のオプションを提示したことだといえそうだ。信長が持つ家康への思いを、光秀は測りかねたのである。