相撲界に初めて「優勝」という概念が登場

 事実、国技館初の本場所2日目は日曜日だったため、早朝から続々と観客が詰め掛け「午後2時10分、1万7千人を算し、満員札止めの盛況」(明治42年6月7日、時事新報)と報じられている。

 それまでの小屋掛けの時代は超満員でも3000人ほどだったので、一挙に5倍以上の観客を動員できるようになったことになる。

 江戸時代からのムシロ張りの小屋掛け時代は、晴天10日興行。雨や雪が降れば順延となり、10日の興行が1か月近くかかったこともあった。晴雨にかかわらず本場所が行えるようになり、協会の経営基盤は安定した。

 国技館の開館を契機として、いくつかのルール改正とともに新制度も確立した。10日興行は変わらなかったものの、幕内力士は必ず千秋楽を休場するというそれまでの慣習を改め、皆勤を義務づけた。行司の装束もそれまでの裃姿から、現在のように烏帽子直垂姿に改められた。

 また、普及し始めていた西洋スポーツの影響もあり、相撲界に初めて優勝という概念が導入された。ただし協会が制定したのは、個人の優勝制度ではなかった。

 相撲は古来、二つの勢力に分かれて戦うものだった。平安時代の相撲節会では、力士は左右の近衛府に分類され、それぞれ左相撲(左方)、右相撲(右方)と呼ばれていた。江戸の勧進相撲も節会時代からの伝統は守られ、東と西に分かれ、東方の力士は西方の力士としか対戦せず、同じ方屋同士の対戦はなかった。こうした伝統は昭和初期まで続いた。