「生老病死」における敵とは
ここで「無敵の老後」というテーマに即して「生老病死」の問題を考えてみるとこういうことになろうか。
まず「生老病死」の「生」だが、老人にとっての「生」は、“ただ生きる”だけでいいとわたしは考えているので、「生」はもはや敵ではない。ようするに、気にしない、無視する、である。
75年もこの世に生きてきた身(わたし)にしてみれば、さいわい大きな病にもならず、大きな事故・事件や災害には遭わなかったものの、あまり楽ではなかったなという気がする。
それでも色川武大流に楽か苦の勝ち負けでいえば、8勝7敗で、わずかひとつだけだが勝ち越した人生だったという気がする。もっと大変な目に遭った人は無数にいる。8勝7敗は満足すべき成績である。
「老」は、老人にとってはまさに渦中の問題で、なかには未練がましくアンチエイジングで抵抗をする人もいようが無駄である。これは自然の摂理である。だれが自然に逆らえようか。最終的には受け入れるしかない。
「病」は、できるかぎり避けたいものである。罹患しないように気をつけ、病にかかっても、治せるものなら治したいものだ。しかし用心に限界はあるし、治療にも限界がある。これまた敵視してもしようがない。
「死」もまた自然である。これまで全人類で死ななかった者はひとりもいない。気にしないといっても気になり、無視しようとしても無視しきれない。だが結局、これも受け入れるしかないのである。
「人間(世間)」と「お金」にどう立ち向かうか
「生老病死」のほかに、さらにいえば、もうふたつの苦(敵)がある。「人間(世間)」であり、「お金」である。とくに「人間(世間)」は、敵といえばもっとも敵らしい敵で、ことごとく自分を脅かし、誘惑し、自分に干渉してくるのである。
わたしは以前、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)という本のなかで、「生きているだけで愉しい」という実感を持つに至ったと書いたことがある。そしてこの実感が「腹の底から納得できるのなら」、それは老後の生活や人生にとって「怖いものなし、最強不動のベース」になるのではないかと書いた。
もし人が、ほんとうにこの「生きているだけで愉しい」を心から実感できるなら、つまらぬ考えから自由になれることはたしかである。
つまらぬ考えとは、老後はなにをしたらいいかとか、どのように過ごしたらいいかとか、まして人生100年時代といわれている現在、後半の人生を損をせずに、また後悔せずに、どうすれば楽しくすごすことができるか、といった余計なことである。