(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
※本稿は『無敵の老後』(勢古浩爾著、大和書房)より一部抜粋し、大幅に加筆したものです。
人は、いや男はとくに、「無敵」と聞いて、そういう男になりたいと一度は憧れたことがあるのではないか。相手が何人いようと、またどんなやつらであろうと、眉ひとつ動かすことなく、軽々と、鮮やかに打ち倒してしまう。
たとえばアクション映画「ワイルドカード」のジェイソン・ステイサムや「イコライザー」のデンゼル・ワシントンのようにである。もう無敵も無敵、これほどスカッとした無敵ぶりはない。どんなやつが相手でも、絶対に負けないのだ。
無敵は武術的な強さだけを意味するのではない。それだけでは、ただの腕力バカになりかねない。
映画の中のデンゼルのように書を読み(『老人と海』)、議論や思考においても、本質把握と論理力で相手を論破し、修辞力で納得させることが必要だ。ようするに文武両道である。
わたしは20歳前後のとき、そういう無敵な男になりたいと夢想したものである。
敵とは、生きていくうえで立ちはだかる難事のこと
しかしこれはテレビや映画の見すぎである。
少し考えてみればわかるが、相手が何人いてもバッタバッタとなぎ倒し、どんな無茶な議論をふっかけられても、たちまち理路整然と言い負かしてしまう、なんて事態に出会うことなどめったにあるわけがない。またそんなことがあったとしても、無敵の人間などいるわけがないのである。
無敵艦隊とか不沈艦という。あるいは不敗神話とか古今無双という。そんなものは、そういう存在にけっして成りえない人間が作り出した見果てぬ夢なのだ。
いまではほとんどいわれなくなったが、かつて「男子家を出ずれば7人の敵あり」という警句があった。男が社会に出れば、多くの敵があり、いろいろと難儀が待ち構えている、ということをいったものである。
「7人の敵」とはたとえば、暴力的なやつ、やたらに威張りたがるやつ、他人は利用するだけの利己的なやつ……などなどの具体的な「7人」の敵が想定されているわけではなく、ただ単純に「多い」という意味であるらしい。