しかしそんなことをいえば、「男子」よりも「女子」のほうが生きていくうえではもっと多くの敵がいるはずではないか。このことわざは、まだ「女子」が社会進出をする時代以前に作られたものなのだろう。

 つまり敵とは個々の具体的な敵というよりも、社会で生きていくうえで立ちはだかる難事のことだ、と考えればより現実的である。

無敵になる方法がひとつだけある

 そして仏教では、それを「生老病死」だと考えた。それは人間の根源的な苦である。人間にとってこれ以上の敵はいない。

 しかしその一番最初に「生」とあるからには、もう全部ではないか。生きること自体がすべて「苦」であるなら、「敵」だらけ「苦」だらけである。これはどうにもならんのではないか。

 人間が生きるうえでの「苦」(敵)は「生老病死」である。だがこのすべての「苦」(敵)に打ち克ってやろうという無敵は無駄である。そんな無敵はありえないし、ゆえにそんなことはだれにもできない。

 ただ、無敵になる方法がひとつだけある。

 敵に打ち克つのではなく、敵を無くすのである。敵に打ち克つ無敵ではない。敵を無くしてしまう無敵である(こういう言い方は、論点をずらしたインチキと見なされがちだが、半分以上は本質的だといっていい)。

 敵を無くする対処のしかたは、ふたつしかない。①敵だと思っていたが、もはや敵と見なさない(敵視しない、気にしない、無視する)であり、②嫌だろうとなんだろうと、敵を受け入れてしまう、である。

 社会のなかでひとりの人間が生きていくことの厳しさは、基本的に老若男女に関係がないだろう。しかしそれでも一人ひとりの境遇によって、様々のちがいが生じることは避けられない。そしてまた老年期には老年期の課題があるにちがいない。