放送法問題は日本が民主主義国家として今後も成り立って行けるかの大問題だ

 憲政史上に残りそうな珍答弁が国会で飛び出しました。3月15日、参院予算委員会での出来事です。

「答弁が信用できないなら、質問しないでほしい」

 答弁内容が二転三転ふらふらする状況を信用できないと野党に指摘された高市早苗国務大臣の言葉です。

「それなら質問しないでくれ」というのは、もう政治家の発言ではない。というか政治を語る器でもない。

 タレントばかり議席につけてきたツケの末期症状としか言いようがありません。

 しかしこの一連の問題、その本質は「放送法」の解釈、とりわけ「政治的公平性」の取り扱いが焦点で、個別議員の去就は本来どうでもよい。

 ところが、一般向け報道の傾向は本質を見誤っているものが少なくないように懸念されました。

 今回は「放送法」問題の本質を、既存の報道とは別の角度、東京大学情報学環・ゲノムAI生命倫理研究コア本来の「情報倫理」の観点から切り取ってみましょう。

「報道」の中立性:眼前の金融破綻を例に

 分かりやすく別の具体例でお話しましょう。

 3月15日の欧州株式市場、クレディ・スイスの株価が20%の急落と「報じ」られました。

 これに先立つ14日、過去の財務報告の内部管理に「重大な弱点があった」との「報道」があり、同銀行の筆頭株主であるサウジ・ナショナル・バンクが追加融資を否定する「報道」があった。

 折からの米「シルバーゲート銀行」「シリコンバレー銀行」などの破綻と折り重なるようなクレディ・スイスの今回の事態、ドイツ銀行などへの影響の波及も「報じ」られています。

 いまあえて上の記載すべてで「報道」「報じ」られるなどの部分を強調してみました。

 実際、これらの「情報」は「報道」を通じて広く社会に告知されることで、信用不安も起きれば、取り付け騒ぎも発生する。

「報道」が決定的な役割を果たす「情報化社会」の本質を直視する必要があります。

 仮に今「ドイツ銀行」(現地では「ドイッチェバンク」といいます)について、かなりまずい経営実態を示す「情報」があるとして、その公開、非公開に「ドイツ連邦共和国」政府が介入するなどといったことがあれば、どうでしょう?

 ドイツの中央銀行は「ドイツ連邦銀行」ブンデスバンクで「ドイッチェバンク」ではありませんし、あくまでたとえの話です。

 早晩経営が破綻するのが見えているのに、取り付け騒ぎが起きないようにと、まずい経営情報をあえて政府が流さないようにし、一部のインサイダーだけがさっさと安全に預金を引き揚げるなどの行動があったなら・・・。

 許されないことは誰の目にも明らかでしょう。「放送法」の問題は、まさにここに焦点があると言って過言ではありません。