主体年号を実際に提案した姜錫崇
金日成氏は10代の頃、崔徳新氏の父親である崔東旿氏が満洲に設立した「樺成義塾」に通っていた。これは、金日成氏の回顧録『世紀とともに』にも記されている史料だ。金日成氏が自身の回顧録にも記録するほど、崔東旿氏は金日成氏と深い繋がりのある人物なのだ。
金日成氏は朝鮮戦争当時、ソウルに住んでいた崔東旿氏を北朝鮮に招聘し、とても手厚くもてなした。崔東旿氏が心臓麻痺で死亡した後は、彼の死体を韓国の国立護国院に相当する、北朝鮮の社会主義愛国烈士陵に大事に埋葬した。
こういった金日成氏との縁が、崔徳新氏を北朝鮮に亡命させた主な要因だったと思われる。そして、北朝鮮に亡命した崔徳新氏は反共から親共へと転向し、金日成氏を崇める主体年号を使おうと提案するまでになった。
このように、北朝鮮で主体年号を発案した人物は崔徳新氏だが、主体年号を実践した人物は姜錫崇(カン・ソクスン)氏である。
1932年、平安南道平原郡に生まれた姜錫崇氏は、金日成総合大学とモスクワ総合大学を卒業し、朝鮮労働党歴史研究所の所長を務めた。朝鮮労働党歴史研究所は、北朝鮮のすべての歴史を保管して記録する場所、すなわち北朝鮮の歴史文献の書庫である。
姜錫崇氏の肩書きは朝鮮労働党歴史研究所所長だったが、等級は党中央委員会部長に該当する最高位職であった。ちなみに、北朝鮮外交の実力者、姜錫柱(カン・ソクチュ)第1部長は、姜錫崇氏の実弟である。
金日成氏はもちろん、金正日(キム・ジョンイル)氏とも非常に近しい間柄であった姜錫崇氏は、金日成死去後、主体年号の使用を真っ先に金正日氏に提案した。