韓国のエリートだった崔徳新氏

 1936年、中国の黄埔軍官学校を卒業した崔徳新氏は光復軍に服務し、民族解放運動に参加した。光復軍とは、第二次大戦中の1940年に、中華民国の支援のもとに設立された大韓民国臨時政府の軍事組織である。

 第二次世界大戦が終結した後は韓国に帰国。陸軍士官学校特別班過程を終えた後、1949年に米フォート・ライリーの陸軍幕僚学校、翌年に同じく米フォート・ベニングの陸軍歩兵学校を卒業した。

 1950年6月の朝鮮戦争時は、韓国軍8師団と11師団の団長として参戦し、1953年の休戦協定時は韓国軍所長として、国連軍司令官だったマーク・W・クラーク将軍を補佐し、休戦協定調印にも関与した人物である。

 停戦以後、崔徳新氏は韓国軍第1軍団長を経て陸軍中将になり、その後も駐ベトナム公使と第9代外務省長官を歴任した。1961年と1962年の国連総会には韓国首席代表として参加し、1963年には駐西ドイツ大使まで歴任した。

 まさに、波乱万丈な韓国政治史に名を残すエリートであった。だが、その後の人生は暗転する。

 1967年、西ヨーロッパに住む韓国僑胞と留学生の194人が東ベルリンの北朝鮮大使館に潜入してスパイ活動に従事した、いわゆる「東ベルリン事件」に巻き込まれると、朴正煕(パク・チョンヒ)政権から切り捨てられた。

 それでも、韓国の正統宗教である「天道教」の第7代教祖に上り詰めたが、ここでも朴正煕政権との様々な確執によって天道教教祖の実権をはく奪され、米国移住を余儀なくされた。1976年2月のことである。

 そして、この頃から崔徳新氏は徐々に反共から親共へとシフトしていく。何度も北朝鮮を訪問して親北朝鮮活動を行い、1986年に北朝鮮に完全に亡命したのだ。

 崔徳新氏が北朝鮮へ亡命することになったのは、当時の韓国軍事政権に対する反感もあったが、それ以上に、彼の父親である崔東旿(チェ・ドンオ)氏と金日成氏との関係が大きく影響している。