現在の水原城

(歴史家:乃至政彦)

戦国の女当主

 近年の歴史創作物には「おんな武将」がよく登場する。

 史実から見て戦場に出たことなどないのに勇ましく武装化する姫君や、または一応籠城戦などで武装して指揮を執ったとされる奥方や、佐藤賢一の『女信長』や篠綾子の『女人謙信』ように、史実では男性だった武将が「女体化」された作品など、素材の選別は一様ではない。もっともその多くは架空の設定に彩られたものである。

 だが、当時、少数ながら女性の当主も実在した。

 女の身でありながら、当主として一族郎党をたばね、戦国を生きた女性たちである。

 今回紹介する女性は、そんな女当主の一例を示すものだ。

越後の女性当主・水原祢々松

 永正3年(1506)閏十一月、越後守護・上杉房能は、水原祢々松(すいばら・ねねまつ)なる女性に次の安堵状を送った。

【部分意訳】
そなたの父・又三郎景家が、越中の般若野合戦で討ち死にしたことは神妙の至りに思う。そなたは女子の身であるが、父の跡目をどうするかよく考えて、代官に軍役・奉公を勤めさせるつもりなら、現在の知行経営を引き続き認めることとする。

【原文】
[水原祢々松女          房能](封紙ウハ書)
父又三郎景家去九月十九日於越中国般若野合戦討死、神妙之至候、雖為女子、遺跡事相計、以代官軍役奉公勤之、当知行領掌不可有相違之状如件、
  永正三年閏十一月二十六日 房能〈花押〉
                           水原祢々松女
(『新潟県史』1528号 大見水原氏文書「上杉房能安堵状」)

 こうして祢々松は、父・水原景家の戦死により、遺領を相続したのである。

 ほかに戦国時代の女城主で有名な人物としては、遠江の井伊直虎がいる。彼女(実は男性だと思うが)が当主になったのは永禄8年(1565)である。

 加えて、筑後の立花誾千代(ぎんちよ)も有名であろう。彼女が「城督」に任じられたのは天正3年(1575)である。

 水原祢々松は、2人に比べると知名度では劣るものの、戦国の女城主としては、彼女たちよりも時代が早い。このようにあまり有名ではないが、実は一時期女性が家督を受け継いだという事例は中世にいくつもあったりする。

 では、なぜこのようなことが起こったのだろうか。彼女が跡目を受けたのは、「般若野合戦」による父の討ち死にという悲劇的事件がきっかけだった。

 ここでその般若野合戦を簡単に説明しよう。