ほとんどのニュースはいらないのではないか
わたしはまだ新聞を一紙購読している。ただの惰性である。ほとんど読んでいない。もうあの大判の薄い紙をめくるのがめんどうである。かならずへんに曲がったりしてうまく畳めないのだ。場所ふさぎでもある。年をとってからなおさらそんなことがイライラする。なんで後生大事に、いつまでもあの大きさで作っているのだ。
前はスポーツ欄だけは見ていたが、それも見なくなった。本や雑誌の広告が激減し、薬や通販グッズなどのへんな広告が増えた。テレビ欄も見ない。いまではテレビの番組表でいい。ニュースももっぱらYahoo!ニュースばかりである。
わたしは高校を出れば、新聞は無条件に読むものだ、と思っていた。だから上京してアパート暮らしを始めたときは、早々に購読した(インテリが作り、暴力団が売る、といわれた時代だ)。社会を知り、知識を集積し、教養を高めるためにも、大人として必須、と思っていたのである。近年では、新聞を読めば、メディア・リテラシー能力も鍛えられるといわれるようになった。
だがこれらのことは、ほんとうか? そう思い込まされ、思い込んでしまっただけなのではないか。いまでは、ほとんどのニュースはいらないのではないか、と思うようになってきた。とくに、ただ不快になるだけのニュースはいらない。いやあってもよい。しかしわたしは読まない。先の英国人青年のように、アメリカ人にも、自分でどうすることもできないニュースは読まないという人が多いようだ。わたしもそれになってきた。
それはよくない。たとえ不愉快であろうと、人間として知る必要のある真実は知るべきだ、それが大人だ、それにそれは「国民の知る権利」なんだぞ、といったようなもっともらしい言い分はもうけっこうである。
新聞社、テレビ局、こんなにいっぱい必要か?
新聞社もテレビ局も莫大な資金と人材を投入して、報道することは当然のものだと思い、ニュース報道の価値を疑いもしない。ジャーナリズムは100年以上の歴史がある。ハルバースタムや沢田教一など、個々のジャーナリストやカメラマンには尊敬する人もいる。
しかし考えてみれば、新聞は朝刊で20数ページ、夕刊で10ページほど、毎日紙面を埋めて、出している。それをほぼ1年中発行している。それが全国紙で5紙ある(ほかに地方紙や業界紙もある)。テレビは毎日、朝昼晩ニュース番組がある。決まった時間をニュースで埋めなければならない。これも1年中やっている。これがNHKをはじめ、民放キー局5局がそれぞれ番組をもっている(地方局もある)。