(岩田 太郎:在米ジャーナリスト)
米連邦最高裁判所は6月24日、人工妊娠中絶を憲法で保障された権利とした1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆した。連邦レベルの「権利」は否定され、合法の是非は各州議会の立法に委ねられるため、すでに中絶が禁止された州もある。
翻って日本では、中絶が「権利」ではないものの容認されている。刑法に堕胎罪が存在するが、有資格医師により施行される場合に限り、母体保護法の規定が違法性を阻却する。胎児の命や尊厳を法律で保護する立場を貫きつつ、堕胎を罰しないことで多くの女性を救済する「グレーゾーン」「落としどころ」「知恵」であろう。
ところが、白黒をはっきりさせなければ気が済まない二元論に衝き動かされる多くの米国人は、「胎児は『人間』だから、たとえレイプされて身ごもった子でも出産しなければならない」「いや、胎児は人間ではない『モノ』だから、中絶しても罪ではない」などという、極端で不毛な議論から抜け出せない。
今から半世紀前の「ロー対ウェイド判決」は、中絶を憲法上の権利とすることで、そうした論争の最終決着を目指したものである。しかし、そもそも米憲法には中絶に関する明文規定がなく、明文化のための憲法改正や米議会立法の提案も十分な数の賛成が得られないなど49年前の合憲判断の根拠が弱い。それゆえに、ついに引っくり返されたのだ。
それだけではない。今回の連邦最高裁の判断で、同様の法理上の欠陥を抱える「避妊」や「同性婚」など、1960年代後半から2010年代中盤に同裁判所が案出した、比較的新しい憲法上の権利の見直しが進むことが予想される。
それは取りも直さず、各地で活発化してきた日本の同性婚訴訟の行方にも重大な影響を及ぼし得る性格のものであり、仔細な検討が必要であろう。
まず、連邦最高裁の多数派の判事たちが、中絶は憲法上の権利でないと判断した理由を見てみよう。