米軍の攻撃にさらされるトラック諸島の日本海軍泊地(撮影日不明、写真:近現代PL/アフロ)

 昭和19(1944)年2月17日、夜明けとともに米機動部隊の戦闘機グラマンが来襲。日本海軍が前線基地を築いた南太平洋のカロリン諸島トラック島は、熾烈な波状攻撃にさらされた。艦船、輸送船のほぼすべてがあっという間に沈み、重油と食糧、施設の大部分が燃えた。南東方面作戦の扇の要ともいうべき大型補給基地トラックは、1日にして完全にその機能を失ったのである。この壊滅的な惨敗を「大本営」はどう伝えたのか? 国民に知らされていた太平洋戦争の戦況は、いかに“でたらめ”だらけだったのか。戦記文学の傑作『松本連隊の最後』(山本茂美著、角川新書)から一部を抜粋・再編集してお届けする。(JBpress)

想像を絶した首脳部の驚きと混乱

〈トラック島大空襲〉の敗報は大本営を驚かせた。

 はじめはそれでも「何? トラックが!!」と驚いた人も、
「よし!! ついにきたか。しかし、こんどこそは今までのようなわけにはいかないぞ!!」
「バカなヤツらだ。思い上がった敵空母もこんどこそやられるぞ!! みておれ、次に入ってくる戦況が楽しみだ」 そう言っていた大本営へ、前線からその後次々と入ってきた詳報はだれも初めは信じるものはなかった。たとえやられるにしても、1機も飛び立たぬ間にことごとく破壊されて、港の艦船もほとんどやられ、南進の補給物資も、野積みのまま灰になるなど信じられるはずはなかった。

 しかしつぎつぎにはいってくる入電によってそれが事実だと知った時の大本営の驚きは、ただ茫然自失というより、たとえようがなかった。

 それもそのはず、トラックでこそ、内戦作戦海域マリアナ、カロリンの地の利を得て、ミッドウェーのあだ討ちをしてくれるものと期待していたからだ。首脳部の驚きと混乱は想像を絶した。