その【続き】まで言うことはほとんどないが、腹の中ではこう思っている。

「何も考えんとパック肉買って食べるだけ食べて、自分で食べる肉を獲ってる人間を批判するんは卑怯ちゃうか? スーパーに並んでるのは肉となる運命が最初から決まっていて、殺されるために生まれてきた動物たちなんやで。自由に駆け回ることもできず、生きてる間中薄っすら自らの運命を悟っとるんやで。それやったら大自然の中でのびのび育ったエゾ鹿を獲った方がなんぼかフェアで健康的ちゃうか。毎回獲れるわけちゃうし、獲れたら獲れたで自然の恵みとエゾ鹿に感謝する。その後の解体や肉にするための処理も正直楽ちゃうよ。でも昔は当たり前やったはず。命を頂くんやもん、それくらいは当然やわ。私にとってはスーパーのパック肉を手に取るたびに『ごめんね』って思う。うちらがラクしたいばっかりにつらい生を送らせたかもしれへんね、って」

狩猟される動物が可哀そうなら、食べられる前提で飼育される家畜は幸せなのか

 いかん、書いているうちに興奮してしまった。というか少し盛ったかもしれない。パック肉に謝りたくなるのは5~6回に1回くらいかもしれない。毎回思うとつらいし、それほど暇ではないというのが正直なところ。ただ違和感や罪の意識は常にある。

 ただ、話はまだ終わらない。肉に関して以外も言いたいことがある。

「あなたが食べられる対象の動物なら、野性と家畜、どちらがいいですか? 野性は自らの才覚で寿命を全うできる可能性があります。家畜はいずれにしても若くして死にます。動物特有の伝染病に罹ったら有無を言わさず殺傷されたり生きたまま焼かれたりします。さあどっち?」

 狩猟を始めた当初にそこまで考えていたわけではなかったが、あまりにも批判的なことを言う人が目立ったので、ぼんやり感じていたことにちゃんと輪郭を付けて考えたらこうなった。

 大抵の人は最後まで言わなくても、美味しいエゾ鹿の肉を食べれば途端に黙るので、私が【続き】まで語ることはほとんどない。私を含め、人の思考は卑怯で合理的にできていると思う。美味しいは正義、ということだ。

(次回に続く)