そこでとくにカギとなるのが里山の循環です。マルクスは、人間が絶えず自然に働きかけることで生じる、自然との循環的な相互作用を「物質代謝」と呼びました。人間が手入れをしながら自然と共存していくイメージです。都会の生活はそうした自然との関わり合いと切り離され、自然から疎外されています。
養老 人が手を入れてない状態が「自然」だという考え方はおかしいんですよね。人と関わりがなければ、そこは人にとって「存在しない」のと同じことになりかねない。日本が考えるべきは、手入れをして活かしてきた、身近な里山の自然でしょう。
斎藤 大人も子供も、どんどん田舎に行って自然と接してみるべきだと思います。自然を大切にしようと唱えても、自然と触れ合う経験が少ないと、やっぱり抽象的な議論になりがちです。自然と触れ合うことで得られる「感性」を、どんどん日本人が失ってきています。知識も経験もこのままだとすべて失われてしまうんじゃないかという危惧があります。
別に農作物を自分で育てるとか、火おこしまで自分でやるとか、そこまでやる必要は全然ない。『人新世の「資本論」』を読んだ人から「便利じゃなかった昔に返ろうということですか」と聞かれることがあるんですが、そんなことはありません。
際限なく欲しくなる「お金」の弊害
養老 昔に戻るのではなくて、人が自然にしている状態、足るを知るありのままで良い感覚でいられる状態が資本主義的にならないようにするにはどうすればいいかっていう話なんでしょうね。
僕は「持続」という言葉を使うんですけど、すべての人が持続していければ問題は起こらないはずなんですよ。みんなが、俺はこれぐらいでいいよと。僕ぐらいの年になれば当たり前ですけど、これ以上欲しいものってもうないんです(笑)。食事だって人の何倍も食べたいとは思わない。そもそも何倍も食べられるわけがありませんしね。
斎藤 そうなると、お金というものがやっぱり有害だと思うんですよね。食事は人の10倍なんて食べられないし、洋服も10倍持ったらもう着なくなっちゃうので、どこかで意味がなくなる。でもお金だけは10倍持ててしまうじゃないですか。お金は10倍持っても100倍持っても、もっと欲しくなる。