筆者は、直近の記事(「韓国に『恥辱』と呼ばれたアフガン退避作戦が示す課題」2021.9.15=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66920)で、アフガン退避作戦の概要と課題について述べた。
筆者が同記事を作成した時点では、政府の実際の行動・判断のタイムラインは不明であった。
今回、外務省を中心とした政府の当時のタイムラインを知り、筆者は、2つのことに驚いた。
1つ目は、外務省は、アフガンからの邦人等を退避・救出するのに際し、初めから他国頼りだった。
2つ目は、外務省は、日本政府に長年協力してきたアフガン人スタッフ500人の退避・救出を二次的な任務と考えていた。
まず、当時の外務省を中心にした政府の行動・判断のタイムラインについて述べる(出典:NHK「緊迫のアフガン13日間 退避ドキュメント」)。
①8月14日夜、外務省内で民間機による退避計画がすでに進められていた。
この退避計画は、8月18日を期限とし、民間のチャーター機で、日本大使館の日本人職員やアフガン人スタッフなど、およそ500人を退避させるというものであった。
②8月15日、民間機による退避計画とは別に、外務省の山田重夫外務審議官が防衛省の増田和夫防衛政策局長に、自衛隊機の派遣が可能か、検討を依頼していた。
ところが、8月15日午後5時すぎ「カブール陥落」の情報が外務省にもたらされたのを受け、外務省は防衛省に対し、検討を保留するよう要請した。
③8月15日午後5時すぎ、米軍から「日本大使館の職員が軍用機に乗りたいなら、日本時間の15日午後10時半(現地時間午後6時半)までに空港に集合するように。それ以降は安全を確保できない」と通告された。
この時点で、外務省は、大使館職員12人を米軍機で退避させることを判断した。
外務省は、在アフガンの10人ほどの日本人に連絡を取り、意向を確認した。この時点で退避の希望者は1人で、その1人は民間機で脱出可能と判断した。
大使館職員12人は9時半頃、6台の車に分乗して警備会社の建物を出発したが、空港までわずか2キロメートルの距離で銃撃戦に遭遇し、引き返した。
外務省の森健良次官は、米国のウェンディ・シャーマン国務副長官に電話し、米軍のヘリコプターによる移送を要請したが、「無理だ」と断られた。
しかしヘリで上空から護衛する「エアカバー」は可能だという言質を得て、12人はヘリに付き添われながら、翌16日未明、空港に到着した。
だが、12人が到着した場所は、米軍の駐機場から遠く離れていたうえに、すでに空港が大混乱に陥っており、翌日まで足止めを余儀なくされた。