それほど強くなかった幕末の日本、なぜ列強をはねのけられたのか

「安全保障において経済力は重要だ」ということを押さえたところで、ちょっと視点を変え、第二次世界大戦の開戦から、さらに約80年時代を遡ってみましょう。1941年の80年前ですから、1861年、元号でいえば文久元年で、要するに幕末期です。

 この頃はまさに幕末の動乱期でした。1853年にペリー来航、1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約という出来事がありました。

 当時の日本の経済力はどうだったかと言えば、欧米列強に比べれば必ずしも高くありませんでした。経済的にも、文明化度合いで言っても、むしろ「後進国」でした。

 そこに黒船に乗ったペリーがやってきて、砲艦外交で江戸幕府に開国を迫ったわけです。このときも日本はアメリカに「追い込まれ」ました。その結果、アメリカと日本和親/日米修好通商条約を締結したことを皮切りに、イギリス、ロシア、オランダ、フランスとも同様の条約を結び、日本はついに開国するに至りました。このときの相手国との経済力、軍事力の格差を考えれば、そのまま外国の植民地になる可能性さえありました。

 ところが、経済力でも軍事力でも劣る日本は、外国の圧力をはねのけ、アジアの中では例外的に独立を保つことができました。

 追い込まれて開国は飲まされましたが、なぜ日本は外国の植民地となる危機をはねのけることができたのでしょうか。

 もちろん、地政学的要因など、色々な幸運が重なったこともありますが、一つには、個々の日本人、そして全国の各藩が非常に強かったという点にも理由を見出すことができます。

 事の是非は置いておくとして、例えば1862年には、横浜で生麦事件が発生します。薩摩藩主・島津茂久の父・久光の行列を、馬に乗ったイギリス人が妨害したところ、薩摩藩士が斬りつけ、イギリス人2人が死亡、2人が重傷を負った事件です。大国の人間であろうと、無礼を働けば斬りかかるという気概を当時の藩士は持っていたのでしょう。

 さらにすごいのは、この翌年、自国民を殺害されたイギリスは軍艦7隻で鹿児島湾に侵入、薩摩藩に砲撃を加えるのですが、薩摩藩がそれに応戦したことです。いわゆる薩英戦争です。確かに薩摩藩は大きな被害を受けましたが、果敢に戦い、逆にイギリス艦隊にも大きな打撃を与えたのです。

 また1863年には長州藩が関門海峡を通る外国船を砲撃します。これをきっかけに長州藩はイギリス、フランス、オランダ、アメリカと戦争することになります。

 こうした戦いは植民地化される危険もはらんでいたわけですが、結果としては「陸戦になったら、狂ったように戦うサムライたちを相手にしなければならない」との恐怖心を欧米列強に与え、植民地化を免れた、とも考えられます。

 現代の行政区分でいえば、鹿児島県と山口県が、それぞれ海外の大国と戦争をはじめたということですから驚きです。それが可能だったのは、各個人の気概の強さと各藩の経済的・軍事的強さがあったからです。そしてこれが、一国の安全保障を考える上でも非常に大きな意味を持っているのです。