出身地で登用に差が出る北朝鮮の現実
咸鏡道の人々は「泥田鬪狗」と呼ばれてきた。「泥沼で食いちぎって戦う犬」という意味で、利益のために見苦しい戦いをすることを例えた故事成語である。生活力や団結力で咸鏡道の右に出る地域はなく、一方、生活が苦しいことから頻繁に紛争が起きた地域でもある。
金日成は生前、咸鏡道出身者が北朝鮮の幹部全体の10%以上を超えないように徹底する“マジノ線”(第一次大戦後、フランスが対ドイツ防衛戦として国境に構築した要塞線)を引いていた。党幹部の人事を主管する中央党組織指導部幹部課の中央党行政幹部に、咸鏡道出身の幹部を制限する内部指針を通達したのだ。通達は今でも有効だが、生活力が強い咸鏡道出身者は、北朝鮮の党幹部の50%を上回っている。

金日成は、北朝鮮に約200ある郡の中で、咸鏡南道錦野郡には一度も行ったことがないという。朝鮮を建国した太祖・李成桂が生まれた「謀反」の故郷だからである。金日成は咸鏡道にいい感情を持っていなかった。
平安道と咸鏡道の間には、受け継がれてきた感情がある。中でも、平安道の出身者は咸鏡南道地域に対して悪い認識を持っている。わずか数十年前まで、平安道地域の人と咸鏡道地域の人の結婚もはばかられるほど、悪感情が深かった。
北朝鮮ではどの地域の出身者が好まれるのか。
平安道の人々は「猛虎出林」と呼ばれてきた。「荒々しい虎が森から出てくる」という意味で、素早く、猛烈な勢いがある激しい性格を例えている。
北朝鮮の首都平壌も歴史的には平安道だ。金日成は党や軍の幹部を自身の出身地でもある平安道地域の人を主に登用するよう奨励した。
主要ポストの候補が複数いる場合、咸鏡道出身者ではなく、平安道出身を任命するのが金日成の人事基準原則だった。平安道出身者を優先した金日成の偏った人事のため、能力のある多くの咸鏡道出身者が失望し、苦杯をなめて歴史の裏に消えた。これは金日成時代に限った話ではなく、現在も続いている。