「石田耕牛」と呼ばれる黄海道出身者
その点、黄海道の出身者は無難である。黄海道の人々は「石田耕牛」と呼ばれてきた。「石場を行く牛」という意味だ。
牛に耕運機を引かせて石場を通る時、耕運機の刃が引っかかったからといって無理に引いたり諦めたりせず、続けて引っ張り続ける、黄海道の人々の忍耐を指している。黄海道の人々は、誰かに脇腹をつねられても1分ほど経ってからうめき声を出すとも言われている。
忍耐力がある一方で鈍感といわれており、北朝鮮幹部の人事基準では無難だとされている。
江原道の人々は「巌下老仏」と呼ばれてきた。「岩の下の老いたお釈迦様」という意味で、人情深い江原道の人々を指す言葉である。現在、江原道は韓国と北朝鮮に分かれているが、朝鮮半島で人情に厚いとされる江原道出身者は、北朝鮮の党幹部の人事基準で無難だとされている。
他にも、平壌の人々は面倒なことを先にやらずに顔色を窺って遊ぶことを好むとされ、咸興地域の人々は生き残るために卑劣な行動も辞さず、開城の人々はケチだと言われている。開城の人は利己的で商業的といわれているが、高麗時代の首都だった頃に高麗人参などの商業が発達したことに由来する。
歴史的な背景に基づく地域住民の性格や文化の評価は正しいとは限らない。必ずしも当てはまるわけではないし、今は変化している。もっとも、北朝鮮政権が内部指針で咸鏡道地域出身者を制限し、平安道地域出身者を奨励する政策を行ってきたのは事実である。