内モンゴル出身で静岡大学教授の楊海英氏は、『内モンゴル紛争――危機の民族地政学』(ちくま新書)で、これまで内モンゴル自治区で「34万人が逮捕、3万人が殺害された」と指摘する。

 きっかけになったのは、1966年から始まった文化大革命で、当時、モンゴル人に着せられた「罪」はふたつあった。

「第一の罪」は、「対日協力」だ。1930年代、日本が満洲国を樹立したのと同時に、内モンゴルにもモンゴル軍政府を樹立させ、モンゴル人は日本に協力したという理屈だ。

「第二の罪」は、日本が第二次世界大戦で敗北して内モンゴルから撤退した後、モンゴル人は中国に属することを好まず、モンゴル人民共和国との統一を願ったことだ。

 この二つの「罪」により、漢族の入植者たちは「民族分裂の歴史」だと断じて34万人を逮捕し、2万7000人以上を大量虐殺した。モンゴル人政治家のウラーンフは失脚し、北京で“人質”になり、内モンゴルに戻れなくなった。

残忍な拷問の実態も情報統制で漏洩封鎖

 櫻井よしこ著「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」(『週刊新潮』2008年6月19日号)によれば、アルタンデレヘイ著、楊海英編訳の小冊子『中国共産党によるモンゴル人ジェノサイド 実録』(静岡大学人文学部「アジア研究プロジェクト」刊行)は、今日まで続くモンゴル人虐殺の凄惨な事例を詳細に伝え、「50種以上の拷問」が考案されたことを紹介している。

「中国共産党はまず、ウラーンフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。文字を読める人は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」

 大きな禍根が残った。文化大革命が終息しても、中国政府は大量虐殺に加担した漢族の入植者たちを処罰しなかったことから、1981年、モンゴル人大学生たちは大規模な抗議活動を実施した。だが当局の厳しい弾圧に遭い、学生運動を支援したモンゴル人幹部や文化大革命で辛うじて生き延びた人々は全員粛清され、学生たちも辺鄙な地域へ追放されて、公民権を剥奪された。

 内モンゴルの人々に対して中国政府が半世紀以上にわたって行ってきた虐待は驚くべきものがある。だが、こうした状況これまでほとんど外部に漏れ聞こえてこなかったし、世界でも注目されていない。中国政府の徹底した情報統制によるものだろう。