雲仙普賢岳、数多の人命を奪った火砕流

 長崎県雲仙普賢岳の噴火は、それから4年後の1990年11月に起こった。いったん小康状態になったものの、年が明けると再び噴火。それでも当初は人的被害はなかった。5月24日、最初の火砕流が発生し、付近の民家に迫ったことで避難勧告が出た。緊迫感が一気に高まった。

もくもくと上がる噴煙(写真:橋本 昇)
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「火砕流」という言葉を聞くのはあの時が初めてだった。調べてみると、地中からゆっくりと押し上げられた粘質の固いマグマが火口から流れ下らずにそのまま巨大な塊(溶岩ドーム)となって山裾へ崩落することらしい。

 この大いなる自然の脅威を前に、報道カメラマンや研究者が普賢岳に蝟集していた。そして彼らは、その後も避難勧告地域に入り込み、それぞれの仕事に向き合っていた。

 そして1991年6月3日、大火砕流が発生した。避難勧告地域にいた消防団員や警察官、報道関係者等が飲み込まれ、43人が亡くなった。

 高温の流れが、地元の民家や畑、そして「定点」と呼ばれる撮影ポイントでカメラを構えていた報道関係者を襲ったのだ。報道関係者がチャーターしたタクシーの運転手、地元の消防団員は、報道の巻き添えになる形で命を落とした。マスコミの報道姿勢に、世間から大きな非難が巻き起こった。

火砕流はすべてを焼き尽くす(写真:橋本 昇)
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