春日山城にある上杉謙信の銅像

(乃至 政彦:歴史家)

謙信と2人の養子

 先日「御館の乱」に絡んで、越後の上杉謙信(1530〜1578)、上杉景勝(1555〜1623)の話(「御館の乱」上杉景勝と菊姫の結婚を計画したのは謙信だった? https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65121)をしたので、今回は前後2回にわけて、上杉景虎(1554〜79)について述べることにしたい。

 景虎は景勝同様、謙信の養子であった。景勝は、越後国内で謙信と争ったあと、臣属した長尾政景の子息である。景虎は、相模北条氏政の末弟である。どちらも謙信を苦しめた強敵の身内という点で共通している。

 どちらが先に養子になったのかは諸説あるが、景勝が先だろう。卯松と呼ばれた児童の頃、まだ長尾景虎を名乗っていた謙信の養嗣子となり、「長尾顕景」の名乗りを得ていた。越後国主・長尾家の惣領となる予定でいたと考えていいだろう。

 その直後、思わぬ事態が起きる。謙信は周囲に要請されて、関東管領上杉憲政から役職と家督を譲り受け、上杉家の当主になったのだ。ただしこの時点で謙信は、自分は長尾に戻る身と認識していたらしく、その役職もあくまで代行に過ぎないと明言していた。

 ところが上杉の名字を名乗る年月が長くなり、そこに伴う利益と責任から離れられなくなる。その頃、激しく争い続けていた北条との和睦して同盟を結ぶことになり、交渉過程で相模から人質として、「北条三郎」なる少年が越後に派遣されることになった。ここで謙信は、三郎に「上杉」の名字と、自身の初名「景虎」を与えて、「上杉三郎景虎」を名乗らせた。

 だが、しばらくして上杉と北条の同盟は破綻する。普通、外交関係を解消する場合、人質を元の家に戻すのが通例だったが、景虎は越後に残った。景虎は景勝の姉を妻に娶っており、嫡男がすくすくと育っていた。これを帰国させるのは酷である。景虎が相模に帰国しなかったのは、こうした情的な背景があったからだと考えられている。

 ところがこれから再び関東で北条と戦うとして、景虎が後継者であると見られていたら、関東現地の領主たちが味方してくれない恐れがある。そこで謙信は、顕景にも「上杉」の名字と自らの官途「弾正少弼」を与えて、「上杉弾正少弼景勝」の名乗りを与えた。

 これで関東諸将に、「上杉のために働いても、徒労ではないぞ」とアピールする狙いがあったのだろう。