芸人とグルメばかりのテレビ番組。あとは話題作りに必死なドラマ。騒々しいだけの音楽CM。無意味で驚かすだけの緊急地震速報。もう大丈夫だとわかってるのに、延々と地震番組をやるNHK。タレント気取りの女子アナやレポーターの「食リポ」。「最初うまみが感じられ、そのあとスパイスの香りが追いかけてきて……」なんてやっている。ばかいってんじゃない。店は店で、なんでもチーズをのせる。デカネタを出す寿司屋が減らない。それをありがたる客も減らない。それで、口を開けば「かっこいい」と「かわいい」と「やばい」の三語だけで済ませている。

 年を取ってから、とみに望みが単純になってきた。年を取ると判で押したように、やたら西行や鴨長明や良寛や兼好法師や芭蕉や山頭火や尾崎放哉などの隠棲・漂白・俳句・短歌系に惹かれがちである。実際わたしがそうである。それどころか、鴨長明の生き方や考えが身に染みるようになった。

 鴨長明『方丈記』(蜂飼耳訳・光文社古典新訳文庫)のなかにこんな一文がある。「やどかりは、小さな貝を好む。そのほうがよいと知っているのだ。みさごという鳥は荒磯に棲む。それは、人間を恐れるからだ。私もまたそれと同じだ。世間に近く住むことがどういうことか、どうなるか、すでに知っているから、もう何かを望むこともないし、あくせくすることもない。ただ、静かに暮らすことだけを考え、余計な心配のないことそのものを楽しんでいる」

 最後の部分の原文は、「たゞしづかなるを望(のぞみ)とし、憂(うれ)へ無きをたのしみとす」である。わたしの現在もまた、親愛なる者たちも含めて、「しづかなるを望」、「憂へ無き」を願うのみである。

 鴨長明はまた「何事につけても、生きていくことが容易ではない世の中」といっている。いまから800年前の世は、現在とは比較にならないほど「生きていくことが容易」ではなかっただろうが、いまはいまで、やはり騒々しいことが厄介である。損得勘定や自我の競り合いやポリティカルコレクトネスの欺瞞が煩わしい。すべてのCMに透けて見える拝金主義がばかばかしい。

 それらの一切からできるかぎり遠ざかっていたい。保山耕一氏の静謐で美しい映像は、そのためのささやかなアジール(避難所)である。