つらいことがあり、もう撮影をやめようと思っていた保山耕一氏は、2018年12月22日、若草山からみる奈良盆地の雲海を、京都にまで広がるような御蓋山(みかさやま)の信じられないような雲海を見た。保山氏は「100年に一度の雲海」という。
神が見せてくれた、あきらめずにまだ撮影をつづけなさい、と感じられた。そのときの遥か彼方にまで広がる雲海も映像に残っている(以下の映像を参照)。たしかに「100年に一度の雲海」かもしれない。
わたしは氏の作品を通常パソコンで見る。深夜にはテレビで見る。大画面は圧倒的に美しい。しかしまだ、全部を見ることはできていない。1本はおよそ5分前後。毎日数本、気の向くままに見せてもらっている。本を読むときなどは、テレビで環境ビデオとして流している。ときどき画面に見入ってしまう。ほかに、深夜のNHKでイレギュラーに放送される映像詩「春日大社」「飛鳥」「祈りの桜 奈良県吉野山」「やまとの季節七十二候」がある。
興福寺執事・辻明俊氏の著作『興福寺の365日』(西日本出版社)に付いてるDVD「映像詩 天平の祈り」も美しい。
わたしはただ呑気に、きれいだなあ、といっているだけで、保山氏が体験したことの辛さは想像もできない。わたしはたった1週間の入院にさえ音を上げたほどメンタルが弱い。かれの撮影の苦労は並大抵のことではなかろう。
人工肛門のために車に乗ることができないと聞いた。移動ひとつするにも大変だろう。真っ暗な早朝、深夜、雨、豪雪のなかでの撮影も根気がいる。この「奈良、時の雫」は仕事というものではない。もし仕事というのであれば、祈りの仕事というほかはない。それよりも使命感、命の証のようにも見える。文字通り、保山氏の命を懸け、生涯を懸けたライフワークである。
鴨長明が身に染みる
この社会は、それまでもろくなニュースはなかった。いつまでも減らないパワハラにセクハラ。怒鳴る、煽る、いじめるの世相。それに加えて、コロナ以降はさらにうんざりするような事態が出来(しゅったい)している。自粛警察にマスク警察。気休めだけのマスクと検温。マスクをしていればもう安心という能天気派がいれば、おれは絶対にマスクはしないと抵抗するバカもいる。すればいいじゃないか、たかがマスクだ。
人間の粉飾した意図、底意、悪意を見たくも聞きたくもない。昼頃に起きてテレビをつけると、TBSの「ひるおび!」の司会者が得意気に「マンボー、マンボー」と連発している。なんのことだと思っていると、画面の右上に「まん延防止」の文字。なんだこのことか。あほくさ。
マスコミがやたら言葉を縮めるようになった。「東京オリ・パラ」「麻取」「児相」「京アニ」「読モ」。こんな省略形を使ってさも得意気である。素人もこれに倣う。流行らそうとしている「サブスク」が腹立たしい。「サステナブル」など、1文字省略しただけではないか。ちゃんと「サステイナブル」といえよ。