排便障害があり、病は癒えていない。それでも一年365日、毎朝5時前の始発電車で生駒の自宅から奈良へ向かい、その日の撮影計画を立てる。夕方に帰宅し、夜編集してアップする。それを楽しみに待ってくれる人がいる。
風景を撮るのではなく色を撮る
保山氏は死を意識してから、あきらかに生き方も考え方も変わったのである。それまで、風景はただの被写体だったが、そのなかに身を置いて撮影できることがしあわせに感じられるようになった。色にたいする感覚も鋭敏になった。風景を撮るというより、色を撮る。デジタル画像・映像は編集できるが、かれはあくまでも「ほんとうの鮮やかな色」を映そうとする。葉っぱの水滴、朝露、水の表情を映す。花や月を撮る。
月は「生まれたての月」が一番きれい。新月は真っ暗だが、翌日には鉛筆でうっすら描いたような細い月が見えるのだ。だれもそんな月を探さないが、その月が一番美しく、そこに「極上の美」がある。
春日大社の藤の色は特別だという。藤が自ら光っているように見える。桔梗も蓮も、輝く一瞬がある。それが命にも神の姿にも見える。「ほんものの色を忠実に映したい」と保山氏はいう。シリーズのなかにも、紫色の藤と雨の水滴がすばらしい「春日大社の藤」という作品がアップされている(このタイトルの作品は年ごとに何本かあるが、以下で紹介しているのは「春日大社の藤、2021」)。
生きる世界も、華やかな世界から小さな世界へ移った。氏のYouTubeを見る人は2000~3000人ぐらいか(多いものは7000~8000回の再生)。チャンネル登録数は1.4万人である。マスコミが注目するのは100万の登録数があるものだったり、何億回も再生されるチャンネルである。基本、内容はどうでもいいのだ。それはそれでしかたないが、保山のような人の作品は動機も目的も全然ちがうのである。かつて、かれはひとりの友人もいなかったが、いまでは上映会を開けば数百人のファンが詰めかける。
100年に一度の雲海
奈良を撮った写真家なら有名な入江泰吉がいる(かれの旧宅と記念写真館は訪ねたことがある)。写真は写真のよさがある。映像は映像のよさがあり、かれの映像はやはりちがう。さすがプロである。ふだんわたしたちは、かれの映像のように風景を見ることはない。それが目くるめく色彩の展開としてアップで映され、映像の力を実感する。