道端に死体があふれた90年代の絶望

 90年代の「苦難の行軍」は世の中をめちゃくちゃにした。飢え死にする人が増え続けた。詐欺師、泥棒、ひったくり、強盗などあらゆる犯罪も増えた。「苦難の行軍」というのも聞き慣れない言葉だが、このような新しい単語が次々に登場した。道端で死んだ国民の遺体を処理する「死体処理班」という職業も生まれた。これは世界のどの国にもない職業だろう。「苦難の行軍」によって作られた職業である。

 数百万という国民が飢え死にする中、商売もせずに研究ばかりしていた研究員や博士たちも、配給を受けられずに飢え死にしていった。愕然とした。このような時期に病院長に任命されても、私は素直に喜べなかった。

 患者を治療する過程で多くの賄賂をもらえる医師は「いい職業」といえる。数十人もの医師を指導、統制、配置し、薬を配分するという全権限を持つ院長は医師よりも数倍いい生活を送れた。

 しかし「苦難の行軍」の時期は、権力と富を持つ党幹部や安全員(警察官)にも劣る職業になった。党の唯一思想体系を徹底させる地位に就き、反党反革命宗派分子に仕立て上げることのできる党員、あるいは罪を罰することのできる安全員と比べ、医師の権力は非常に小さかったのである。食べ物がすべてを左右する「苦難の行軍」の時期の医師は、鶏を飼う労働者以下の職業だった。

 医師の給料は月2000~3000北朝鮮ウォン(約240円~360円、闇レートの相場)であり、米1キロ程度しか買えない。病院側は患者を治療し、その代価として食べ物を要求した。外国では「無償治療」「無料教育」と知られている北朝鮮。だが、治療は無料であっても食べ物を要求するのだから、実際は「有償治療」も同然だった。今も「無償治療」「無料教育」は社会主義制度の優位性だと党は喧伝している。

栄養失調の子供に食事を与える看護師。1990年代の飢饉では子供を含め大勢の人々が亡くなった(写真:代表撮影/AP/アフロ)

 私がS病院長として働いていた人口12万のS市では、2004年の1年間に、約230人の子供が死亡した。これは病院で死んだ数だ。自宅で死んだ子供の数を合わせると、どれほど多くの子供が死んでいるのだろうか。医師の矜持も持てなくなった私は、早くそこから脱出したかった。結局、病気の治療を口実に病院を辞め、D郡に戻った。

 その頃、私は57歳になっていた。飢え、事故、病気などで、すでに多くの同級生がこの世を去っていた。そのまま北朝鮮で暮らしていたら、長くても20年、短ければ10年で死んだだろう。死ぬ前に故郷の日本にどうしても行きたかった。

 病気の母は床の中で、「テギョン、生きて外国へ行くチャンスがあれば日本へ行きなさい」と言ってくれた。これは母の一生の願いであった。脱北すると告げると、兄と姉はため息をついて言った。「危険な道だから賛成はできないけど、止めるつもりもない。私もそうしたかったから。頼むから、くれぐれも気をつけて。必ず成功して、連絡してきて」。

 1980年半ばに脱出したいと思い、決行するまでに26年かかった。北朝鮮で脱北は「反逆罪」とされ、捕まったら政治犯収容所に送られる。「自分以外は誰も信じるな」と言われていた北朝鮮で、信頼できる脱北ブローカーを見つけるのは容易ではなかったが、2007年、両親や兄弟に勇気づけられ、親友だった申誠の失敗経験をもとに、命懸けの危ない橋を渡ることにした。