脱北に失敗して収容所送りになった無二の親友
兵役に服し、医科大学を卒業し、研究員として働いていた80年代は、周囲でいろいろなことが起きた。
私の住んでいたD郡の村には25世帯、100人あまりの北送在日同胞が住んでいた。そのうちスパイが2人、末反動(日本が善で北朝鮮が悪だと言うこと)が1人、脱北しようとして捕まった人が2人、ビラを散布したという陰謀により捕まった人が1人、酒を飲んで喧嘩し暴言を吐いて教化所(刑務所)に送られた人が1人と、私が知るかぎり7人が粛清された。
自由民主主義国家で行われるような拘束令状の請求も裁判もなく、弁護人すらいない。家で寝ている人を引っ張り出してきて、パジャマ姿のまま捕まえるのだ。
翌日、保衛員が人民班長(町内会長のようなもの)を訪ねて、「彼はスパイだった」とか「反党反革命宗派分子だった」と言えば、それが結論になる。どこに連れていかれたのかも知らされず、生きているのかどうかも分からない。もし同情の言葉を言ったものなら「共犯者」にされてしまう。一般人は真実を知ってはならないのだ。
逮捕されたのは7人だが、逮捕者の家族や親戚・姻戚は連座制により「敵対分子」に認定される。家族の1人が逮捕されると、両親や兄弟はもちろん、親戚も合わせて10人ぐらいが「敵対階級」として監視を受けながら暮らすことになる。政治犯収容所に収監されたのが7人なら、70人が「敵対分子」として弾圧を受けている状況だった。
私には申誠(シン・ソン)という親友がいた。彼の母親は日本人。北朝鮮で一番の親友となると、金王朝の悪口すら言い合える仲だ。もしその悪口が外に漏れたら、命を落とすことになるのだから。ある日、申誠に脱北したいと言われ、私は手伝うことにした。彼のために地図を手に入れ、夜を徹して脱北ルートや方法を研究した。成功したら私も追いかけて脱北すると約束した。
しかし、申誠は脱北に失敗した。朝中国境に位置する茂山(ムサン)郡で捕まり、政治犯収容所に監禁されたのだ。その知らせを受けたのは80年の初めのことだ。私も脱北の機会を狙っていたが、この事件のために怖くなり、機会を待つことにした。今、私が脱北に成功して韓国に住んでいられるのも、申誠の失敗と数多くの脱北者の犠牲のおかげだろう。それこそ「血の脱北」といえる。