「ポプラのまさかり事件」に直面した私

 兵役中だった1976年、「ポプラのまさかり事件」が起きた。韓国と北朝鮮の軍事境界線上にある板門店で、ポプラ並木を伐採しようとして起きた衝突事件である。

 この事件では米兵2人が北朝鮮兵に殺された。私は弾倉が満タンに装填された銃を持たされ、坑道での生活を余儀なくされた。地上の生活から地下の坑道での生活に変わるということは、戦争が差し迫っていることを意味する。すぐにでも戦争が勃発しそうな雰囲気だった。

 兵役に服する時、母にこう言われた。「英雄にならなくていい。元気な体で帰ってきなさい」と。もし戦争が起きたら、相手に降伏してでも生き残ろうと決心した。何よりも金王朝のために命を捧げる理由もなかったし、銃で撃たれてまで戦おうとも思わなかった。銃を持っていても、頭の中では親や兄弟たちとの未来を思い描いていた。

 北送在日同胞は日本で暮らしていたという理由で監視と差別を受け、学校も仕事も党の指示に従わなければならなかった。もちろん重要なポストにも就けない。そのため、技術を必要とするポストに自力で進むしかなかった。

 私は軍隊生活を送りながら医科大学に入ろうと決めた。金正日の「先軍政治(軍事を最も重視するという政治思想)」により、軍に服務した者は就職や大学入試において加算点が与えられた。さらに労働党員だった私は、P医科大学に簡単に入学することができた。

医科大学時代(旺載山にて)

 北朝鮮のすべての大学は軍隊の体系と同じだ。小隊(学級)、中隊(学部)、連隊(総学生会)で組織されている。勉学の場であるため、軍隊のような厳格な規律は適用されないが、人数、制服、制帽などを確認し、統制するための朝会と夕方の点検も、右手を耳元に当てる軍隊式で報告する。

 将来は研究所で働くという夢を持ち、私は必死で勉学に励んだ。大学卒業後の就職は党が決める。私は党委員会を訪れ、研究して党に忠誠を示すことを誓い、研究員として働けるようになった。