これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)
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平成25~26年:66~67歳
東京に出た娘や息子が、それぞれに伴侶や孫を連れて帰郷し、父親が興した会社に娘婿や息子が相次いで入社するなど4世代のファミリーが顔を揃えたのも束の間。
矢継ぎ早な両親の他界と、予想だにせぬ娘婿・颯一郎の急逝に、恭平は無常観に苛まされた。
一旦は社長の座を中田颯一郎に譲ったものの、再び会長兼社長として復帰した恭平は、改めて自らの社長としての足跡を振り返り、その脆弱な経営手腕に大きな溜息を吐いた。
漆黒の闇の中を一目散に走り続け、東の空が白々と明るみ始める頃、息を弾ませて振り振り返れば、そこには茫々たる断崖絶壁に架かる一本の長い丸太橋が風に揺れて在った。
一歩足を踏み外せば奈落の底とはつゆ知らず、知らぬが仏の強運と果報に恵まれ、一条の光明とも言うべき丸太橋を恐れも知らず駆け抜けて、ダイナーウイングの今日が在る。
(ツキだけに頼り切った私には、後進に承継すべき経営ノウハウが無い!)
36歳での社長就任時の売上げ3億円弱は、30年間の悪戦苦闘の荒波を越え、幸いにも50倍近くに伸長していた。
それは多分に、パートナー企業であるエンゼルスの出店拡大と施策によるもので、恭平自身は、失敗ばかりの「経験」と根拠のない「勘」と蛮勇じみた「度胸」で猪突猛進した、一代限りの僥倖に過ぎず、同じ盛運を次世代に望むのは酷であると痛感していた。
恭平が舵取りしてきた時代は、エンゼルスをはじめとするコンビニエンスストア業界の勃興期で、幸いにして身の程知らずの挑戦も多少の失敗も、売り上げ拡大で許容された。
しかし、コンビニエンスストアが飽和状態とも言われる時代に入り、売上の増加と共に従業員数も千数百人を超えたダイナーウイングは、経験と勘と度胸だけの旧態依然とした経営から堅実で安定した経営への脱皮が求められている。
(中田颯一郎亡き後、河本敦史をはじめとする若い社員たちを本物の経営者に育てる器量は、自分には無い!)
そう考えるに至った恭平は、大手町物産の松本良二部長を訪ね、思いの丈を訴えた。