中日への14年ぶりの復帰が決まった福留孝介(写真:アフロ)

 日本野球機構(NPB)現役最年長。日米通算2407安打、2度の首位打者など数々の記録とタイトルを手にしてきた球界の“レジェンド”福留孝介が、8年間在籍した阪神タイガースを去ることになった。

 40歳を過ぎ、さすがに年齢的な衰えを隠せずにいたが、その真摯な野球への取り組みに、師事する若手選手も多かった。

 だが、2020年9月に発生した主力選手のコロナ集団感染の際、感染の原因になったとされる会食に参加していたこと、また選手たちを代表する形で謝罪コメントを発表したことなどから、一連の騒動の中心的存在のようなイメージを世間に与えていた。それに乗じたかのように、球団は「戦力外」に踏み切った。

「まだ燃え尽きていない」と現役続行を希望する福留に対し、思いを汲んだ中日ドラゴンズが獲得に動き、かつてプロ野球生活をスタートさせた古巣への14年ぶりの復帰が決まった。

 だが、この移籍も中日ファンの間では賛否両論あり、必ずしも歓迎ムードばかりではないという。

 43歳にして野球人生の岐路に立つ福留へのエールを込めて、アマチュア時代から彼を取材するスポーツライターが、隠されたエピソードを掘り起こす。

(矢崎 良一:フリージャーナリスト)

代表チームで浮いていた福留

 あれは1997年の春のことだ。

 台湾・台北市で開催された第19回アジア野球選手権。スポーツ紙などでもほとんど報道されることのなかったマイナーな大会だが、銀メダルに終わった前年のアトランタ五輪後、初の国際大会ということで、大学生と社会人で構成される日本代表を取材するため渡台した。

 福留孝介(当時・日本生命)は、この代表チームのメンバーの一人だった。

 当時の福留は社会人2年目。アトランタ五輪でともに活躍した井口資仁(現ロッテ監督)、今岡誠(同コーチ)、松中信彦(元ソフトバンク)らがプロ入りし、アマチュア野球の“顔”ともいえる立場になっていた。

1996年のアトランタ五輪。松中信彦(元ソフトバンク)とハイタッチする福留孝介(写真:ロイター/アフロ)

 大会は地元台湾と韓国以外の出場国は明らかに格下で、中には30点近い大差で日本が大勝する試合もあった。

 当初は慶大の高橋由伸、明大の川上憲伸ら注目のドラフト候補も代表にエントリーされていたが、六大学の公式戦と日程が重なるため参加を辞退。社会人のベテラン選手を中心とする地味なメンバーとなったが、関西の大学リーグに所属し、まだ全国的には無名だった上原浩治(当時・大体大)や二岡智宏(当時・近大)らも参加していた。スピードガンの数字は140kmそこそこなのに、うなりを上げるような上原のストレートを初めて見て、「どこから来た選手だ?」と慌ててプロフィールを調べたのを覚えている。

 現地で取材した記者は私を含めわずか3人。選手と同じ飛行機で台湾入りし、選手と同じホテルにチェックインした。チームバスに同乗させてもらい、近くのグラウンドで行われた練習では球拾いも手伝った。試合を終えた夜には、選手たちと一緒に街に繰り出すこともあった。

 そうやって何日か過ごしていると、チーム内の人間関係が垣間見えてくる。微妙な空気が感じ取れるのだ。

 それは若くしてチームの中心選手である福留と、他の選手たちとの距離感。わかりやすく言えば、福留はチーム内で浮いていた。