呪いが渦巻く宮廷では、皇族や貴族が病気になると看病禅師が対応した。

 看病禅師は官職で呪的な知識だけでなく、医療的な心得も持ち合わせた知識人の最高位でもあった。

 平安京の都には鬼が入れないよう結界が張られていた。

 北東の鬼門の方角には悪い気が集まりやすく、百鬼が出入りするところとされ、比叡山延暦寺は都の守りを強化するために置かれたものだった。

 南西の裏鬼門には岩清水八幡宮が置かれ、羅生門や朱雀門は鬼が入ることができない門とされていた。

 だが、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』には、羅生門や朱雀門では無数の鬼たちが練り歩く百鬼夜行が目撃されたと記されている。

 百鬼夜行に遭遇すると、遠からず死ぬという話がある。

 日本で呪いが知識や技術として確立したのも平安時代。密教僧と陰陽師がその役目を担い、不思議な力を発揮した。

 陰陽師は天皇や貴族の依頼で筮占(ぜいせん)や式盤占いで病気や災厄を占っていた。また、眷属である式神を意のままに操り数々の不思議な現象を起こしたと伝わる。

 式神とは陰陽師が使役する鬼神で、様々な姿身を変えて、人の善悪を監視するもので『宇治拾遺物語』では紙などを陰陽師の呪力で生きものの如く操ったと記されている。

 陰陽道は5~6世紀頃、中国から伝わり、平安時代前半、宮中において呪術(祈る技術、呪う技術)は陰陽道が中心で、陰陽道は宮廷で重要な学問とされた。

 風水学と同じ陰陽五行説がその根幹で、天文、暦、相地、占筮、方術や、未来も読み取るとされ、災いが生じても原因を探ることで状況を変えることができたと伝えられている。