政局と社会構造を熟知し、日本一の実力者に

 文治元年(1185年)、義経は平家を一気に滅ぼしてしまう。義経は2つの意味で愚かだった。

 1つは、大失態を犯している。平家が逃亡の際に安徳天皇を連れ三種の神器を持ち出し、一時的に京都の後鳥羽天皇と2人の天皇が存在する事態となった。南北朝ならぬ、「東西朝」である。この事態は2年間続いた。そして事もあろうに安徳天皇は入水、あげくに三種の神器の1つである草薙剣は、遂に壇ノ浦に沈んで浮かんでこなかった。

 もう1つは、義経は頼朝の構想をまったく理解していなかった。頼朝の目的は、朝廷に対し武士の自立を認めさせることである。外国のように朝廷に取って代わるなど考えていない。大昔の平将門は勝手に「新皇」を名乗り日本中の反感を買ったが、頼朝はそのような愚を避けた。

 平家討伐を名目にゆっくり軍を進め、各地の裁判権を掌握する。朝廷も平氏も政権担当能力を失い、公平な裁判を行っていない。だから軍事進駐して占領地に秩序をもたらし、それを日本中に広げる。これが頼朝の構想だったので、何も考えずに平家討伐に邁進する義経は邪魔でしかなかった。頼朝は仕方なく義経を謀反人認定し、全国に追捕の手を伸ばし、勢力を拡大する。

 頼朝は当時の政局と社会構造を熟知し、何をすべきかの現実的政策を実行した。全国に守護地頭を設置した。つまり、頼朝は武士が有事の募兵や納税などの義務を果たす代わりに、所領を安堵し裁判の公正を約束した。千年以上も日本中に根を張る朝廷の勢力はまだまだ侮りがたかったが、頼朝は誰もが認める日本一の実力者となった。

 そして実質を完成させるのは、形式である。頼朝は最も重要な形式にこだわった。

 建久3年(1192年)、頼朝は征夷大将軍に任じられる。

 征夷大将軍は、有事に戦場において天皇に代わり統帥権を行使する職である。これを兵馬の大権と呼ぶ。征夷大将軍のいる場所を「幕府」と呼ぶ。征夷大将軍も幕府も臨時の職である。それを常設にするとは、治天の君に代わり最高権力を保持することを認めたことである。

 以後約700年間、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が征夷大将軍を返上し江戸幕府が滅びるまで、武家政治が続く。