日本人は、どこまで政治の劣化に我慢しなければならないのか? とっくに合格最低点を下回り、年を経るごとに進む政治の劣化に対し、いつまで「よりマシな政治」に甘んじなければならないのか?

暗殺の危機のなか先手を打って挙兵

 約850年前も、日本人は同じように思っていた。

「いつまで我慢しなければならないのか?」と。

 そんな時に救世主の如く現れたのが、源頼朝である。

 頼朝の名を聞いたことがない日本人はいないだろう。だが、頼朝がいかに偉大な人物であるかを知っている日本人はどれほどいるだろうか。

 源頼朝は、世界に模範となる日本人である。

 あるべき政治家の姿として、頼朝の生涯を追う。

 久安3年(1147年)、頼朝は中級貴族の源義朝の嫡男として生まれた。三男だったが、母の身分が高かったので、嫡男とされた。

 当時の政界では、実力のある上皇が皇室の家長として権勢を振るった。「治天の君」である。他の上皇や有力貴族は権力に取り入ろうと陰湿な派閥抗争を繰り広げていた。天皇は「皇太子の如し」と扱われ、栄華を誇った藤原摂関家もいかに治天の君に取り入るかに腐心していた。そうした朝廷上層部の最下層に源氏と平氏が存在し、有力貴族に犬のように使われていた。

 保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御し、治天の君の座を巡り崇徳上皇と後白河天皇が争った。結果、源義朝と平清盛がついた後白河陣営が勝利した。だが、義朝の親族はほとんどが崇徳陣営につき、源氏の勢力は衰退する。保元の乱である。

 平治元年(1159年)、義朝は後白河上皇に謀反を起こし破れる。父は逃亡中に家臣に裏切られ、騙し討ちで殺された。既に公家として任官していた13歳の頼朝は初陣として参加したが、何もできずに捕縛された。この時、清盛の慈悲で伊豆への島流しで許された。

 平治の乱以後、中央政界では平清盛の権勢は他を圧し、遂には後白河法皇をも幽閉する。権力と富を独占する平家への不満は全国に広がった。これに真っ先に反旗を翻したのが、以仁王(もちひとおう)である。