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(文+写真:船尾 修/写真家)
満洲国にはいったいどれぐらいの数の日本人が在住していたのだろうか。実はこの問いに対する答えはなかなか難しく、正確な数値を出すことはできない。外務省の「満洲開拓史」によると、終戦時の在満邦人は155万人。満蒙同胞援護会の「満洲国史・上」では終戦翌年の引き揚げ時において136万人という数字が著されているので、公式の在住者数は200万人未満といったところだろう。
1940年(昭和15年)の満洲国国務院による国勢調査では、約4101万人の国民のうち、日本人はその5.2パーセントの213万人ということになっている。ややこしいのは、この数字には131万人の朝鮮人・台湾人が含まれていることだ。なぜならその時点で朝鮮半島と台湾は日本の植民地になっていたから、朝鮮人も台湾人も「日本人」にカウントされたからである。ということはその数字を引いた82万人が日本人(内地人)の実数ということになる。
しかしこの数字には軍人やその関係者は含まれておらず、また租借地である関東州における人口は入っていない。この他、満洲へは一獲千金を夢見て渡航してきた人も少なくないのだが、すべての人が成功したわけではなく、失敗して流浪の民になったり日本へ帰国した人も多かったわけで、人口は流動が激しかった。そもそも定住していない人の数はなかなか表面には出てこない。
細かい数字はわからないが、それでも少なくとも数百万人単位の日本人が実際に満洲へ渡航したことは間違いないだろう。日本が日露戦争に勝利し、ポーツマス講和条約が結ばれたのは1905年(明治38年)のことだが、早くもその年に大阪と大連を結ぶ定期航路が就航している。神戸と門司を経由する航路で、大阪商船によって運行された。この日満連絡船はその後、満洲へ渡る日本人が増えるにつれて増便され、最盛期には毎日運航された。また、鹿児島や長崎から大連へ往復する便も就航するようになる。
大連のすぐ南にある旅順がその地政学的な位置からロシアにとっても日本にとっても軍港としての機能が重視されて発展していったように、大連は良港をもつがゆえに満洲における海運を一手に担うという点で街の発展は約束されたも同然だった。
現在は人口が600万人という大都会の大連だが、しかし当時は数万人程度の小さな街に過ぎなかった。日露戦争前にはロシアがこの地を清朝から租借しており、ロシアは不凍港である大連を足掛かりにして日本や南方への進出を目論んでいた。大連という地名はロシア語で「遠方」を意味する「ダーリニー」から来ている。日本がこの地を占領後、そのロシア名を漢字に置き換え「大連」と呼んだのはおもしろい。