四面楚歌――いまから約2200年前の中国秦朝末期、楚の項羽(Xiang Yu)が漢の劉邦(Liu Bang)の軍に取り囲まれ、漢軍が楚の歌を歌っているのを聞き、すでに多くの部下たちが寝返ったことを知って望みを失った――司馬遷(Sima Qian)が『史記』に記した有名な故事である。
いま中国圏で、この言葉が最もピッタリ来るのが、香港最大の銀行で、かつイギリス最大の銀行でもあるHSBC(香港上海滙豊銀行)ではなかろうか?
香港のイギリス系企業研究の第一人者である馮邦彦(Feng Bangyan)暨南大学教授は、昨年末、632ページもある大著『英資財団』(British Enterprises in Hong Kong)を三聯書店(香港)から出版した。馮教授は同書の中で、1840年のアヘン戦争の結果、香港島を清国(中国)から割譲させたイギリスにとって、HSBCは約150年にわたった香港の植民地支配のバックボーンであり、最大の功労者だったとしている。
HSBCは1865年に、香港を本店とする初の銀行として開業。翌年からイギリス政府と香港行政府に成り代わって、「香港ドル」の発行を担当するようになった。さらに、香港割譲の2年後の1844年、香港に最初に乗り込んで来たイギリスの商社・怡和洋行(Jardine Matheson&Co.)と、1877年に合併を果たした。
こうして、アジアの金融センターとなった香港の「支配者」として、長年にわたって君臨したのである。1997年に香港がイギリスから中国に返還されて以降も、HSBCの存在感は、いささかも衰えることがなかった。
現在でも香港やイギリスを始め、世界64カ国・地域でビジネスを展開し(明治維新直前の1866年に日本で初めて登記された外国企業でもある)、従業員数は23.3万人。8月3日に発表した今年上半期の決算によれば、267億4500万米ドルを売り上げている。
そんな「香港の王者」HSBCがいま、四面楚歌の状態に陥っているのである。
中国政府の意向に逆らえなくなったHSBC
きっかけは、昨年6月に香港で始まった、逃亡犯条例に反対するデモだった。民主派グループは、デモを継続し、かつ拡大していくため、香港内外から広く寄付金を募った。
その際に利用したのが、世界中に支店を持つHSBCだった。かつ、HSBCはイギリス系なので、顧客の口座のプライバシーが守られるという意識も、民主派グループ側にはあった。