1940年11月16日、ハインツ・グデーリアンはソ連侵攻作戦において重大な役割を担う4つの装甲集団の1つ、第2装甲集団の司令官に就任した。詰めの甘い作戦だった「バルバロッサ作戦」、そしてヒトラーと国防軍の間にうまれた軋轢。華々しい緒戦の勝利にもかかわらずドイツを敗戦国たらしめたものは、何だったのか。『「砂漠の狐」ロンメル』『独ソ戦』の著者である大木毅氏が、伝説の戦車将軍グデーリアンに迫る。第1回/全3回。(JBpress)
(※)本稿は『戦車将軍グデーリアン「電撃戦」を演出した男』(大木毅著、角川新書)より一部抜粋・再編集したものです。
あいまいな目標と不充分な戦力
1941年6月22日、ドイツとその同盟国の軍隊およそ330万がソ連に侵攻した。奇襲を受けたソ連空軍は、あるいは地上で破壊され、あるいは空中で撃墜された。こうして得られた航空優勢の傘のもと、ドイツ軍は猛進し、ソ連西部国境地帯に配置された赤軍諸部隊をたちまち撃破していく。
世界の軍事筋の多くは、ドイツ軍の鮮やかな成功に圧倒され、ソ連崩壊近しと判断した。無理もないことである。なぜなら、彼らは、ドイツの戦略方針が確定しておらず、また、その戦力はソ連という巨人を倒すには不充分だったという事実を知らなかったのだから。
ヒトラーと国防軍には、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」を策定するにあたり、重大な見解の相違があったことはよく知られている。ヒトラーは南部ロシアの資源地帯を奪取することを重視したが、国防軍、なかんずくOKH:陸軍総司令部[(以下、OKHと表記)独ソ開戦後、主として東部戦線の作戦指揮を担当するものとされていた。その他の戦域は、OKW:国防軍最高司令部(1938年2月4日に、国防省の後身機関として設立された。以下、OKWと略称する)が管轄する]は首都モスクワを攻略することで、政治、経済、軍事、国民心理のすべてにわたって打撃を与えることを優先すべきだと主張した。ただし、このあつれきは、「バルバロッサ」作戦の計画段階では深刻なものとはならず、2つの方針のいずれを選ぶかという問題もあいまいなままにされた。
楽観とソ連軍蔑視のなせるわざだった。ヒトラーとOKHは、国境会戦、すなわち、独ソ国境地帯で決戦を行い、敵主力の奥地への撤退を許さず、これを撃滅してしまえば、事実上戦争は終わる、モスクワか、それとも重要資源地帯の占領かという選択は、そのあとに決めればよい、と考えていた。